Prologue
今から思えば、前兆はあった。
例えばこちらを見る兄の顔が、一瞬何かを耐えるように歪められたり、目が合えば不快そうにぎゅっと眉根を寄せられたり。パッと浮かぶものだけでも両手の指の数はくだらない。中でも特に目を疑ったのは、いつもは腹が立つほど自信満々な輝きを湛えている兄の瑠璃色の瞳が、迷子の幼な子みたいに途方に暮れる様を目の当たりにした時だ。あのとても兄とは思えない弱々しい姿を見てからというもの、途端に国広は悪い予感という名の暗い影に、しつこく付き纏われることとなった。
そして、総じてそういう予感とは当たるものである。
国広が違和感を覚えるようになってからすぐに、二人の心に距離が出来始めた。また、それに比例するように口論も増えていき、二人の仲が完全に冷え切るまではあっという間のことだった。
「なんでお前は俺の言うことが聞けないんだ」
何もかも自分の思い通りにならないと気が済まない、高慢で完璧主義な兄。一方で、兄のように器用に振る舞うことの出来ない、アイドルとして欠陥品な自分。
「愛想がないし気が利かない。お前、この業界向いてないよ」
うるさい。そんなことは自分が嫌というほどわかっている。何度吐かれたか知れない毒に、焦燥に似た苛立ちが募った。
やれファンサの時の笑顔が引き攣っていて美しくない。クールキャラ路線で売っているなら、ホイホイ笑顔を安売りするな。不意打ちの質問に対する返答が馬鹿丸出しだから、しっかり考えてから発言しろ……エトセトラ。厳しい兄から様々な言葉を投げつけられたけれど、すべて事実であったので、悔しかったがそれまで特に言い返したことはなかった。だが、そんないつ爆発するとも知れぬ不安定な均衡状態が、長く続く筈もなく。「お前なんてせいぜいが俺の偽物だ」と吐き捨てられた時、国広はとうとう我慢の限界に達した。
「俺だって変わる努力をしている。もう放っておいてくれ。お前の小言にはいい加減うんざりだ!」
自分なりに兄の外面の良さを参考にしつつ、愛想良くなろうと努力していた。ダンスや歌のレッスンも、人の倍以上に熟してきた。そんな国広の影の努力を知りながらの、『偽物』呼ばわり。そこまでコケにされて黙っていられるほど、国広はお上品に収まる人間ではなかった。
これでも人並みに矜持はある。寧ろそうでなければこんな業界で生き残ることは出来なかっただろう。負けん気という意味では、国広は確かに業界人向きだった。
「お前の価値観を俺に押し付けるな! 俺はお前の人形じゃない!」
「……なんだと」
「俺は偽物なんかじゃない! 山姥切国広だ!」
それから怒鳴られて怒鳴り返して、また怒鳴られて……というのを何度も繰り返す。当然のことながら、兄との仲は最早修復不可能だと感じられるくらいに悪化した。
「まんばくーん! こっち向いて!」
心が疲弊していた。あんなにキラキラとしていた世界に、靄がかかる。
「やーん! 長義様ぁ! 投げキッスしてぇ!」
色彩が、失われていく。
赤、緑、黄……それから青。景色が、灰色になってゆく。
「……どいつも、こいつも」
そして最後に、何より愛していた音楽が遠ざかっていった。薄い膜が張られた一人きりの世界の中、惨めに取り残されてしまったかのような、そんな錯覚を覚える。何をしても現実味がない。
上部だけの笑顔に、耳触りの良い言葉だけでコーティングされた甘ったるい口説き文句。そんなペラッペラな張りぼてに人は簡単に騙されて、勝手に自分の理想を生み出し、それをアイドルという偶像に当て嵌める。笑顔がなくてもクール美人だとか言われて持て囃される。ファンサが上手く出来なくても、照れちゃって可愛いだとか、そんなクールなところも好きだとか宣って、変わらず追いかけてくる。
(俺が努力した意味はあったのか?)
そう自問自答するようになった頃、国広は無駄な悪足掻きをやめた。『偽物』という兄からの言葉が頭に焼きついて離れず、何をしても兄の劣化コピーにしかならない気がして怖かったのだ。
この時にはもう、国広はアイドルとして失格だった。
《Gemini LIVE TOUR 2202 ~cielo~ in TOKYO》
そんな最悪の状態で迎えた、GW公演最終日。
未だぎこちない雰囲気のまま、二人は舞台に立った。そこで心が伴っていなくても、ファンが求める理想の『仲良し兄弟アイドル』というのは、いくらでも作れるのだと知った。素知らぬ顔をして舞台の上で美しく笑う兄が、目に眩しい。その完璧な笑顔の仮面を一枚剥げば、どこまでも冷淡な表情が露わになることを知る者は、果たして何人いるのだろうか。
国広は陰鬱とした気分になりながらも、色鮮やかなペンライトを振る観客たちへ手を振り続ける。
(……滑稽だな)
まるでわざと大玉の上から転げ落ちて笑う、道化師のようだ。
「国広くーん!」
「来てくれてありがとう」
それでも、と思っていた。アイドルユニットとして一緒に活動している内に、いつかは多少なりともマシな関係になれるのではないかと、限りなく願望に近い期待を国広は抱いていた。
『時間がすべて解決してくれる』
以前、グループ仲が悪いと有名だった先輩アイドルたちが言っていた。そんな彼らは今ではすっかり仲良くなり、互いを親友と呼び合う仲になっている。だから大丈夫、今だけだ。何もあの人たち並みに仲良くなりたいとは言っていない。せめて世間話が出来るくらいになれればと……いつかは……。
だがそんな淡い気持ちは、すぐさま粉々に打ち砕かれることとなった。
「長義、少し待ってくれ」
アンコールの曲を歌いきり、舞台袖へと向かっていた時のこと。国広のファンが持っていた『ウインクして♡』と書かれた団扇が偶々目に入り、期待に応えようとその場で足を止めた。長義は既に裏へ入りかけていて、客席側から姿が見えなくなっている。仕方なく後ろを振り返ることもせずに、先へ先へと進んでゆく彼へ声を掛け、意識を再び客席へと戻した、その瞬間。
「……いっ、」
ぐっと、痛いくらいに、強く腕を掴まれた。
「長義……? どうした」
それは兄の手だった。兄は自分でやったことだというのに、顔を見ると何故か唖然とした表情を晒している。そのあまりに無防備な表情は、初めて見るものだった。
「……潮時かな」
「は?」
俯き、ぽつりと呟く長義の姿はいつになく不気味に映る。しかし、そんな様子のおかしさはすぐに鳴りを潜めて、再び彼が顔を上げた時には、また普段通りの仏頂面が貼り付けられていた。
「……なんでもない。ほら、裏に戻るぞ」
そのまま手を引っ張られて、碌なファンサも出来ずに舞台袖へ引っ込む。控え室へ向かう間ずっと手を繋がれていたことについて、国広は何も言えなかった。何か一つでも間違えれば、きっと兄は簡単に壊れてしまう。根拠もなくそう確信するほどの緊張感が張り詰めていて、とてもでないが声を掛けることが出来なかったのだ。
今日の兄は、朝から様子がおかしかった。今はライブ後の高揚感で頬が紅潮しているが、メイク前まで顔色が悪かったことを国広は知っている。
「……大丈夫か?」
調子が悪そうだとわかっていたくせして、労りの言葉を掛けたのが今か。薄情過ぎていっそ笑える。
「うるさい。無駄口を叩くな」
「……はいはい」
こうなる前から、元々兄と仲が良かったわけではない。正真正銘血の繋がった兄弟といえど、阿吽の呼吸ということはなく。寧ろ一般的な兄弟の関係と比べたら、些か淡白なようにも感じられる程度の仲だった。
(まぁ、それも当たり前か)
何せ自分たちは兄弟といえど、片親しか血が繋がっていないのだから。二人の母親はそれぞれ異なる。長義の母からすれば、夫の浮気相手にあたる女の胎から生まれた不義の子。それが国広だ。そんな厄介者そのものな弟を、何の軋轢も無しに受け入れろという方が酷な話である。
(さて、どうしたものか……)
「解散しようか」
ぼうっとそんなことを考えていた国広はしかし、控え室に着いた直後に硬直した。
「……今、なんて、」
声が震える。言葉が返ってくるのをこれほど恐ろしいと思ったことはない。さぁ、と顔色が悪くなる国広を興味なさそうに一瞥して、兄はもう一度言った。
「《Gemini》を解散しよう」