*Scandalous Love

TOUKEN RANBU
 第一話 リセット

 空は快晴。嫌味なくらいに綺麗な空だ。
 汗ばんだ肌を撫でる風は生ぬるい。拭っても拭っても滴り落ちてくる雫に眉を顰めて、国広は眼前に広がる光景を静かに見つめた。
「長義くーん! やだよぉ!」
「国広くん! 解散なんて言わないでぇ!」
 辺りを埋め尽くす人、人、人。青と緑のペンライトを振り回し、興奮した獣のように発狂するファンたちの中には、悲痛な表情を浮かべて泣き出している者もいる。その内の一人であるコバルトブルーのタオルを肩から提げた女は、きっと長義のファンだろう。また、一向に泣き止む気配のない彼女の隣では、国広のイメージカラーであるエメラルドグリーンのタオルに顔を埋めた女が、細い肩を震わせながら号泣していた。
(これで最後、か)
 去年の五月。長義から一方的に解散を告げられてから、一年以上の時が経過していた。
 あの後、社長へ解散の件を伝えに行った時はかなり渋られたものの、無駄に口の回る長義が粘り強く交渉した結果、あと一年間は活動を継続することを条件に、正式に解散を認められることとなった。あっさり了承されてかなり落ち込んだのは、一生の秘密である。ちなみに、長義としてはもっと早いタイミングでの解散を希望していたようだったけれど、そこは事務所との契約期間や出演していた番組・CMなどの放映期間の兼ね合いもあり、流石に提示された期間以上の譲歩は許されなかったらしい。
 ずっと《Gemini》を応援してくれていたファンたちには、ファンクラブの会員宛てに一斉メールを送ることで報告を済ませた。同時期にマスメディアへの解散報告も済ませ、それから怒濤の勢いで月日が流れ、今に至る。
 事務所には多くの解散を惜しむ声が寄せられた。
 国広たちの人気を再認識した社長は、ギリギリまで考え直せと引き留めてきたが、国広はともかく長義の意志はかなり固く、最後まで彼が首を縦に振ることはなかった。

《Gemini LIVE TOUR 2203 ~EИd mark~ in YOKOHAMA》

 最後に発売されたアルバム名の『EИd mark』から取ってつけられたライブタイトル。長義からこれでいこうと提案された時、なんて皮肉だと苦笑したのは記憶に新しい。《Gemini》として正真正銘最後の公演となるこのライブツアーに、これほどぴったりなタイトルは他には無いに違いなかった。
 横浜アリーナを会場としたオーラスのチケットは、受付開始から三十分で完売したという。興奮気味のマネージャーからそう聞かされた時、他人事のように感じたことが、何より寂しかった。
「今日は来てくれて本当にありがとう!」
「……っ」
 沈みかけていた意識を浮上させ、兄の方を見る。
 変わらず綺麗に笑う兄の横顔が、スポットライトに照らし出された。念入りに磨き上げられた刃のような、鋭くも美しい輝きを放つ白銀の髪が、汗でしっとりと顔に張り付いている。目に掛かった前髪を雑に払って、兄は声を低めて言った。
「これが最後のMCだね」
 客席は吐息さえ殺すかの如く静まり返っている。唐突に始まったMCは、そんな重々しい空気のまま始まった。
「ジュニアの頃から応援してくれた人も、デビュー後からの人も、今まで俺たちを支えてくれた皆に伝えたい。君たちの存在が俺たちの励みだった。君たちが応援してくれたからこそ、俺たちは今まで頑張れたんだ。……ありがとう!」
 ステージの端から端まで動き回ったせいで息は乱れ、言葉の合間に僅かな吐息が混ざる。いつもと違い、完璧とは言い難い少々乱れた山姥切長義のラストトーク。別れを示唆する残酷な「ありがとう」に、涙を啜る音があちこちから聞こえ始めた。
(あぁ……)
 やはり、兄はすごい。その声、仕草、目線一つで、観客の意識をぜんぶ惹きつけてしまう。カリスマ性とでもいうのだろうか。一度視線を向けたら目が離せなくなる。そんな他にはない魅力を彼は持っていた。
(俺は、ああはなれない……)
 だからこそ斬り捨てられたのだろうか。今日までずっと考えていたけれど、結局本当の解散の理由は分からず終いだった。自分のどこが悪いのかといくら聞いても、兄は決して教えてくれなかった。自分で考えろ。そんなこともわからないからダメなのだ。いい加減しつこいぞ。そう繰り返すばかりで、聞けば聞くほど冷えて荒んでゆく彼の機嫌を前に、国広はついに何もかもを諦めた。
 すう、と。
 兄が大きく息を吸う。隣に立っているだけの国広にも、彼が緊張しているのが伝わってきた。心臓に毛が生えているんじゃないかと思うほど、どんな時も冷静沈着な兄にしては珍しい。
「《Gemini》は今日をもって解散することになりました」
 いやぁぁあ! 
 涙混じりの絶叫がビリビリと肌を震わせる。死に際の断末魔のようだ。心をズタズタに切り裂く痛烈な悲鳴から、どうにか意識を逸らしたくて、思わずぎゅっと目を瞑る。
「……国広」
 しかし、兄はこんな時でも容赦がなかった。さりげなく視線を向けられ、挨拶するよう促される。
「……感謝する」
 その一言に、心からの感謝を乗せて。どうにか強張った声を喉奥から絞り出せば、会場が大きくどよめいた。国広のファンたちが叫びそうになったのを押し殺して、ぐっと耐え忍んだのだ。
 彼女たちが表立って歓声を上げないのは、国広が雑誌のインタビューで『馴れ馴れしくされるのと大声を出されるのは苦手』と答えたのがきっかけだったりする。件の記事が掲載された雑誌が発売されてからというもの、国広のファンたちの中で『静かに黙って彼を愛でることこそ真の国広推し』という暗黙の了解が出来上がった……というのが事の顛末なのだが、そのことを当の本人が知ることはない。国広のファンたちは陰ながら、されど激烈に彼を応援する、自己主張が乏しく献身的な者たちが多いのだった。
「……突然の報告になってしまったこと、すまないと思っている。もう《Gemini》の山姥切国広としてあんたたちに会うことはないが、また何処かで会うことが出来たなら……とても嬉しい」
 淡く微笑む国広の表情が、会場に設置された大型モニターに映し出される。感情を抑えきれなくなったファンたちが一斉に沸いた。嗚咽を漏らしながら泣き崩れた者も出だす始末である。この光景を、目に焼き付けなくてはならない。国広は強くそう思った。
 自分たちの最後を惜しんでくれた人たちの姿を、
 涙ながらに伝えられた感謝の言葉たちを、
 深く、深く。この胸の奥に刻み込まなければならない。この記憶は、これから生きる上で大きな糧になるだろうから。
「……あんたたちに出会えてよかった」
 ふと、何となく横を見た。
 瞳を潤ませた兄が、こちらを見つめている。その顔に表情は無い。底冷えするような美しさを持つ男の無表情は迫力すらあって、何だか落ち着かない気持ちになった。そして、その射るような鋭い眼差しのその奥に、燻る熱の存在を垣間見た気がして、慌てて国広は頭を振った。そんなわけがない。ありえない。だって、いつだって国広を映すその二つの瑠璃玉は、好意とは真逆の剣呑とした光を宿していたのだから。
「それでは、最後の曲を聴いてください」
 見つめ合った時間の長さは、僅か数秒。もしかすると瞬きのそれよりも短かったかも知れない。
「……《EИd mark》」
 高音のヴァイオリンの音色が、ゆっくりと流れ始める。沈黙した湖を進む小舟に乗っているかのような、穏やかな入りのイントロ。途中から合わさるピアノの旋律に誘われて、そっと歌声を乗せていく。
(一生、忘れない)
 涙を堪えながら、密やかに誓った。薄情な兄が自分と過ごしたこの特別な日々を忘れてしまったとしても、自分だけは絶対に覚えていてやる。
(お前は……俺の憧れだった)
 これでもう、堂々と彼の隣に並び立つことは出来なくなる。
 それなりに名家の子息である兄と、不義の子である弟の国広。山姥切家における国広の立場は、産声を上げたその瞬間から微妙なものだった。そこに在るのに居ないものとして扱われる虚しさ。嫡男である兄のいざという時のスペアとして生かされる屈辱。またあの陰鬱とした日々に逆戻りするのかと思うと辟易するけれど、それもまた致し方なしと諦めている自分もいる。
 それでなくとも、このライブを終えたら国広は一般市民に戻るつもりなのだ。このまま芸能界で活躍していくだろう彼とは、必然的に疎遠となっていく。家の事情を差し引いても尚、彼と自分の間を隔てる壁は高くなるばかりで、二人の世界が交わることはこれから先一生訪れることはないと確信していた。
(……これが、最後だ)
 正真正銘の、最後。
 きっともう、これほど本気になれることはない。兄の隣にいたからこそ、国広は彼を超えようと努力してきたのだ。元よりアイドルなんていう目立つ職業に向いていない性分である。束の間の夢から醒めるには、いい頃合いだ。
 切なげな余韻を残して、歌が終わる。
 曲はアウトロへ差し掛かった。
 目覚めの時は近い。
「長義」
「……?」
 僅かに眉間に皺を寄せた兄が、訝しげに振り向く。
「今までありがとう」
 兄の瞳が驚愕を露わに大きく見開かれ、何事かを伝えようと薄い唇が花開いた、その直後――、
 キャァァァァアア! 
 割れんばかりの拍手喝采が、アリーナ中に響き渡った。
「っ!」
「ちょう、」
 再び視線を兄へ戻した時には、彼は見慣れた人好きのする笑みを浮かべて、客席へと愛想を振り撒いていて。結局国広はあの時彼が何を言おうとしたのか、知ることは終ぞなかった。

 *

 ライブ後独特の熱を持て余す。
 控え室へと戻れば、常温のスポーツドリンクをマネージャーから手渡され、手の中のそれをぼうっと眺めた。疲弊した身体はキンキンに冷えた飲み物を欲している。にも拘わらずコレなのは、兄が……長義が、動いた後は常温のスポーツドリンクが一番吸収率が良いからと、国広にも必ず飲むよう厳命したからだった。
 まだ中身の入ったそれをテーブルの上に置き、部屋の外へ出る。廊下に備え付けられていた自販機で、冷えた炭酸飲料を買った。ガタン、ゴトン、という派手な落下音が鳴った後、目当ての物が転がり落ちてくる。何の変哲もないペットボトルを手にした時に、妙な罪悪感と背徳感が芽生えて、されどそれを上塗りするようにふわふわとした酩酊にも似た解放感が心を満たした。
「お前それ、」
「長義か……おつかれ」
 慌ただしくスタッフたちが走り回る騒がしい廊下。そこに衣装の首元を寛げた長義が通りかかる。目敏く国広の手の中にある物の正体に気づいた彼は、案の定キッと目元を吊り上げ、低い声で唸った。
「喉を痛める。そんなものを飲むな」
「別に構わんさ」
 取り上げられる前に炭酸を一気飲みしてやると、長義のこめかみに青筋が立つ。怒りに染まったその顔は、今となっては見慣れたものだった。昔から彼は己の意に沿わないことを国広がしでかすと、手がつけられないくらい機嫌が悪くなる。国広を自分に都合の良いように動く人形か何かだと勘違いしている節があった。
「……何のつもりだ」
「別に。これで最後だからな。喉を痛めたところで誰に迷惑をかけるわけでもないだろ」
「『最後』? ……フンッ、まるで人前で歌うこと自体が最後のように言うじゃないか」
「事実そうだからな」
「……どういう意味だ」
 長義の声色があからさまに変わる。純粋な怒りに支配されたそれから、焦燥を含んだそれへ。その微妙な変化を感じ取り、国広は内心首を傾げながら男へ向き直った。
「言っていなかったか」
「……何のことだ」
「お前に《Gemini》を解散すると言われてから、ずっと考えてたんだ。己の身の振り方ってやつをな」
「まさかお前……」
 事務所を辞めるつもりか? 
 絶対零度の視線でもってして、言外にそう訴えてくる長義に、小さく頷いてやる。途端に彼の顔から血の気が失せて、驚愕も、怒りも、焦燥も、ありとあらゆる感情すべてが、その作り物のように整った相貌から削ぎ落とされた。
「待て、移籍するのか? だとしたらどこに……堀川プロか? お前の母親は確か、あそこの社長の元妻だったな」
「……」
 国広は答えない。答えられなかった。次から次へと捲し立ててくる長義の勢いに呑まれ、すっかり口を挟むタイミングを逃してしまったからだ。
「俺は反対だ。移籍するなら二年の活動制限があるんだぞ。そんなに長い間露出しないとなると、下手をすればお前は、」
「心配なら無用だ」
 このままでは国広が一切声を発しないまま話が終わってしまいそうだ。何とか話を遮って、国広は話し出す。
「俺は芸能界自体引退する」
「なっ……!」
「元々向いてなかったからな。お前の言う通りさ。俺にアイドルなんて初めから無理な話だったんだ」
 空っぽになったペットボトルを、ゴミ箱へ捨てた。喉は十分に潤った。テーブルの上に置きっぱなしのスポーツドリンクは、長義にやればいいか。要らないと言われたなら仕方ない。マネージャーにでも適当に渡しておこう。
 つらつらと取り留めのないことを考えながら、言葉を続ける。こんなに長い間この男と話したのは、二人で芸能界入りしてから初めてのことかも知れない。そのことに今更気がついて、乾いた笑いが漏れた。
「まぁ、転職するにしても、腐っても元芸能人だ。とやかく騒がれても困る。熱りが冷めるまでは大人しくしているつもりだ。……お前に迷惑がかからないようにするから安心しろ」
「……笑える。随分と甘いことを言うものだね。今さらお前が一般人に戻れるとでも?」
「お前と違って、俺は影が薄かったからな。どうとでもなる」
「何を馬鹿なことを……お前は事務所に残るべきだ。何もユニットを解散したからといって、芸能界から去る必要はない。お前は歌える。ダンスだって悪くなかった。お前の実力なら他のグループでだって、」
「もう疲れたんだ」
 視線を足元へ落とす。
 ずしり、と肩に重い何かがのしかかっているような、強い倦怠感が肉体を蝕んだ。あれだけ激しく動き回った後だ。先ほどから身体が疲労に喘いでいる。これまでの集大成とも言えるオーラスを終えて、精神だって摩耗していた。いい加減一人きりになれる場所で休みたい。
「俺にはお前のいる場所は眩し過ぎる……頼むから、これ以上俺に関わらないでくれ」
「……」
「今まで世話になった……じゃあな」
 またな、とは言わなかった。
 もう二度と長義と会うつもりはない。今この瞬間から長義は芸能人で、自分は一般人となった。それに家の事情のこともある。相当の理由がなければ、山姥切の大事な嫡男に妾腹が近づくのは良しとされないだろう。
「……っあの家に戻るつもりか!」
 国広をどうにか引き留めようと、背後から長義が叫んだ。周りで未だ撤収作業を続けていたスタッフたちが、何事かと恐る恐る二人の様子を窺っているのが視界の端に映り込む。これはまずいと思うも、興奮しきっている長義に周りを気にする余裕はなさそうで、国広は渋々足を止めた。
「何のために俺がお前を連れ出したと思っている……! あのままならお前は一生飼い殺しになっていた! だから俺は、……っ」
 血を吐くような声だった。初めて聞くその必死な声色に、純粋に驚く。彼にとって、国広はとうに取るに足らない存在になっているのだと思っていた。だからこそ、見限られたのだと。
「……お前がいなくても、俺はやっていける」
 ヒュッと。鋭く喉を鳴らしたのは、一体どちらか。
「……もう俺のことは気にしないでいい。色々と気を遣わせて……悪かった」
 今度こそ、国広は長義に背を向け歩き出す。その後、長義が何か言い募ることはなかった。国広はよろよろとした足取りで控え室へと帰り、素早く衣装を着替えてシャワーを浴びる。もう何度も繰り返したライブ後の帰り支度は手慣れたもので、大して頭が働いていなくとも、無意識のうちに身体が動いた。


 帰り際、外は雨が降っていた。

 シャワー後の濡れた髪をそのままに、スマホで天気予報のアプリを立ち上げる。どうやらまだ暫く雨は止まないようだ。ふぅう、と深くため息を吐いて、肩にかけたタオルで顔を拭う。じっとりと肌に纏わりつく湿り気が気持ち悪い。
「……帰るか」
 支度を終えて控え室を出ると、待ち構えていたマネージャーが自宅まで車で送ると言ってきた。その申し出は丁重に断り、一人関係者用出口へ向かう。一刻も早く一人になりたかったし、何せ通夜みたいな重苦しい空気の中、一時間近く狭い車内で他人と二人きりだなんて、到底耐えられる気がしなかった。
 シャワーを浴びる前に連絡を入れていたおかげで、外に出たら既にタクシーが待っていた。素早くそれに乗り込み、自宅マンションの近くの住所を伝える。車が動き出し、ようやっとひと心地ついたところで、強烈な眠気が襲ってきた。
(……ねむ、い)
 少し眠るか。五分、いや十分だけ……。

 甘い、匂いがする。噎せ返るような花の匂いだ。
『国広。お前、またこんなところにいたのか』
 記憶しているよりも幾分か高い声が、国広を呼んだ。薄目を開けるとそこには天使と見紛うばかりの愛らしい子どもが立っていて、柱の影から不機嫌そうにこちらを覗き込んでいる。ここは山姥切家の離れの庭か。雪の降り積もった庭園には真っ赤な寒椿が咲き乱れており、人の気配はない。
『兄上……』
 月の輝きを閉じ込めた美しい銀髪に、瑠璃色の宝石を嵌め込んだ、理知的な光を宿す双眸。ふっくらとした小さな掌の上には、たった今摘まれたばかりの寒椿の花が、すっぽりと収まっている。じっと彼の掌を眺めていると、痺れを切らした兄が、国広の方へ花を押し付けてきた。
『触れてみろ』
 言われたとおり、そっと真っ赤な花弁へ触れてみる。外に咲いていたそれは雪に埋もれて冷たい筈なのに、不思議と温度は感じられなかった。
『そら、こんなのはただの花だ。別に怖くないだろう?』
 そこでようやく国広は、これは夢だと自覚する。
 そうだ。昔は、その毒々しい血の色を酷く恐れていた。生き血を啜って生きている化生のようで、いつか自分も食われてしまうのではないかと、不気味に思っていたのだ。
 兄は偶にそんな国広のところへやってきては、手ずから庭から摘んできた椿へ触れさせた。その後決まってこう言うのだ。『これはただの花だ。まったく怖くないだろう』と。あの頃の彼は、国広の恐れるもの、嫌なものを一つ一つ『これは怖くないものだ』と丹念に教え込んでいった。夜に聞こえる葉擦れの音が怖いと泣けば一晩中傍にいてくれ、庭に迷い込んだ猫が怖いと言えば、人懐っこい猫を連れてきて撫でさせる。
 その徹底した兄の《教育》は、国広が山姥切の邸を連れ出されるまで続けられた。
『お前は本当に、俺がいないとダメだね』
 世話のかかる弟に面倒くさい顔一つせず、微笑みながら言う兄。そんな彼を、幼い頃の国広は盲目的に慕っていた。
 言い換えるならばそれは、依存ともいえた。
『兄上、』
『いけないな。そう呼んではいけないと教えたはずだよ』
『……長義』
『よし、良い子だ』
 さらさらと、国広の金糸雀色の髪を撫ぜる手は優しい。どこまでも甘やかす手つきにうっとりと目を細めて、恍惚とした息を吐き出した。堪らない。クスクスと頭上で笑う兄の声が、耳を犯して思考を溶かしてゆく。あぁ、幸せだ。もうずっとこのままで、溺れるような愛情に身を任せて堕落してしまいたい。ずぶずぶの泥濘に両足を沈めて、そんなことを考える。
 このままでいられたら、どんなに……。
『ちょう、ぎ』
『ねぇ、国広。いつかお前をここから連れ出してあげる』
『……?』
『哀れで可愛い俺の弟。お前の恐れるものは全部俺が追い払ってやろう。いつか自由にしてあげるから、それまで良い子で待ってるんだよ』
 楽しげに笑いながら囁く兄が、そっと額に口づけてきた。これは、誓いというより呪いだ。甘い、甘い、花の蜜を煮詰めたような歪な呪い。
『……わかった』
 こくり、と頷いて国広は兄の胸にしな垂れかかる。不意に両目に掌を宛がわれ、促されるまま目を閉じた。規則的な鼓動の音が、鼓膜を震わせる。真っ暗になった世界の中で、二人きりになったような錯覚に陥り、身震いするほどの多幸感に眩暈すらした。
(俺は、何を……?)
 思考が綻んでゆく。
 紐解かれたそれらはバラバラに散らばって、もう二度と還らない。夢心地に手を伸ばして、兄の細い首へ抱きついた。そのまま僅かな吐息を漏らすそこへ顔を近づけ、そして――。
「お客さん、着いたよ」
「ん……」
 懐かしい夢を見た気がする。眠い目を擦り、窓の外を見る。いつの間に到着したのか。そこは確かに国広が指定した場所だった。
「……すみません」
「いいよいいよ。お客さん疲れてそうだったから。あ、料金は七千円丁度でいいよ」
「どうも」
「こちらこそご利用ありがとうございました。風邪ひかないようにね」
「はい」
 傘は持っていなかったので、雨に打たれながら帰り路を歩く。雨足はさっきより格段に強まっていた。こうなっては仕方ないと開き直って、転ばぬよう慎重にずぶ濡れのコンクリートを踏み締める。
「……疲れたな」
 気がついたら、暗い部屋の中にいた。
 びしょ濡れのままソファに座り込み、ぼうっと暗い部屋の床を見つめる。ポタ、ポタ、とフードから溢れた金髪から雫が垂れて、水気を吸って重くなったスラックスの上を滑り落ちていった。
「……」
 何もする気が起きない。このまま寝たら確実に風邪を引くだろう。そう頭ではわかっているのに、身体が言うことを聞かなかった。
 それから何十分、何時間、そこでじっと座り込んでいたのだろう。
 チカチカと点滅するスマホ画面を見ると、時刻はとうに日を跨いでいた。

 ――五月二十三日 零時四十分。

 先日事務所で記入した退職手続き関係の書類を思い出す。書類に記載されていた退職日は、五月二十二日となっていた。よって今日から自分は、完全な一般人となる。
「ハハ、」
 無性に可笑しくなってきて、国広は笑った。達成感? 解放感? いやどれも違う。ただじわじわと込み上げてくるのはどうしようもない虚脱感だけで、それ以外の感情は何ら浮かんでこなかった。
「……こんなものか」
 不安定に揺れる若葉色の瞳から、堪えきれなくなった涙が溢れる。どうにもやるせない。重圧からの解放感よりも、今まで積み上げてきたものを一気に失った喪失感の方が大きいとは。そして身軽になってようやく現実味が沸いてくるなんて、自覚が遅いにもほどがあった。
「ひっ……く、」
 だがまた芸能界に戻りたいかと言われればそうではない。とにかく今はそっとしておいて欲しかった。ずっと憧れていた、己が生きる上での導のような存在に見限られたショックから、立ち直るにはまだまだ時間が掛かりそうである。まったく、何事もままならない。

 泣いて、泣いて、残っていた気力と体力のすべてを使い果たした後、国広は気絶するように眠りについた。だだっ広いリビングのソファで一人、背中を丸めて寝息を立てている少年の姿は、ただひたすらに悲しく、哀れに映った。


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