第二話 始動
庭に咲いている紫陽花が、時折雫を溢しながら弾んでいる。
窓から漏れ聞こえる微かな雨音をBGMに、国広はベッドに立て掛けていたギターを手に取った。手慰みに調律を行い、合格点に達したところで、本格的にメロディーを奏で始める。
「ふんふ……ふーん……」
サビの盛り上がりに欠けるなら、Bメロの音をもう少し控えめに。最後の大サビは半音上げて……そうだ、ここを抜いてみてもいいんじゃないか。音の引き算と足し算をしつつ、歌詞を宛てるならこんな感じか、なんてあれこれ考えて、その都度思いついたことを楽譜へ書き込んでいった。
「おはよう、きょうだ……あっ」
「……ここの音が薄いな。もっとコーラスを厚くして……いや、それだと単調に聞こえるか。それなら、」
「ふふ、またやってる」
黒髪に空色の瞳を持つ、中性的な顔立ちの青年が、一心不乱に譜面と向き合う国広を見て温和な笑みを浮かべる。ここ最近ようやく古傷が癒えてきた国広が、再び音楽と向き合うようになったことを、彼は心から喜ばしく思っていた。
「邪魔しちゃ悪いか」
タタタ、と軽い足音が遠ざかってゆく。誰かがやって来た気配に微塵も気づかぬまま、国広はひたすらギターを弾き続けた。
国広が一般人に戻ってから、二年の時が経った。紆余曲折あり山姥切家の干渉から何とか逃れた国広は、今は気ままな大学生活を謳歌しつつ、母に縁のある堀川家で厄介になっている。
堀川家は、元々母が嫁いだ家だった。理由あって母は堀川氏と別れてしまったが、彼との間にもうけた二人の兄と国広は、父親が違うと言えど円満な関係を築いている。また、そんな背景があったからこそ、当時人間不信になるほど不安定な精神状態であった国広は、何の軋轢も生じさせることなく堀川家に引き取られることが叶ったのだった。
「……ふぅ」
集中が途切れ、譜面から顔を上げる。デスクの上の置き時計へ目をやると、短針は午後十二時を指し示していた。とはいえ今日は生憎の雨模様。空を覆う分厚い雲のせいで、外は真っ昼間とは思えぬほどに薄暗い。
「……腹が減ったな」
「きょーうだいっ」
「っ!」
突然背後から声を掛けられて肩が跳ねる。慌てて声の方へ振り向くと、そこには二番目の兄が盆を抱えて立っていた。盆の上にはパンケーキが積まれた皿と、オレンジジュースの入ったグラスが乗せられている。ほかほかと湯気の立つ皿から甘い匂いが漂ってきて、ぎゅうう……っと盛大に腹の虫が鳴いた。
「あはは! すごい音!」
「うっ、これは……」
「そろそろ集中が切れる頃かなぁと思って。パンケーキ焼いたけど食べる?」
「食べる」
食い気味に頷くと、フフ、と楽しげな笑い声が降ってくる。
「兄弟の分だけ一枚おまけしておいたから。山伏の兄弟には内緒だよ」
早速受け取ろうと手を伸ばして気づく。右手が何度も紙面と擦れたせいで、小指側の面が真っ黒になってしまっていた。おずおずと兄――堀川の顔を見上げると、すぐに「待ってるから洗っておいで」と促される。何だか粗相を見られた子どものような気分になって、そそくさと立ち上がり洗面所へ向かった。
顔が熱い。気恥ずかしさのあまり頬が火照っているのを、嫌でも自覚させられた。
「おかえり」
「……悪い」
「いいっていいって。はい、ゆっくり食べてね」
ナイフとフォークを握り締め、そっとパンケーキを切り分ける。切った感触がしないくらいに柔らかなそれは、口に入れた途端にしゅわりと溶けて、あっという間に消えてしまった。あまりの美味さに思わずほうっと息が漏れる。
「これ新しい曲?」
「……ん、今書き起こしたやつ」
「へぇー! 見てもいい?」
「あぁ」
「ありがとう!」
堀川の父親は堀川プロという芸能事務所を営んでいる。かなり古い歴史を持つ事務所で、若い所属タレントの育成に力を入れていることで知られる、超大手プロダクションだ。堀川自身も《新撰組》というアイドルグループのメンバーとして活動しており、偶に国広が作曲したものを提供することもあった。
「これ……すごい……すごいよ、兄弟! すっごく格好いい!」
譜面を辿った堀川の瞳が、終盤へ向かうに連れてパァッと輝いてゆく。先ほど仕上がったばかりのそれは、今まで堀川に作ってきた曲とはまるで曲調が異なるものだった。
イントロの主役は、変幻自在のサウンドを生み出すお馴染みのエレキギター。空気へ滲み出すように奏でられる精密なアルペジオに始まり、僅かなタメの直後、重低音を響かせドラムとベースが一気に雪崩れ込んで来る。最初から最後まで音の奔流に追い立てられるような、アップテンポで進む怒涛のロックミュージック。
そう、これはアイドルが歌うそれではなく、典型的なバンド向きの曲だった。
「そ、そうか……?」
「うんうん、これ山伏の兄弟も好きなんじゃないかな。そうだ、早速見せに行こうよ!」
「えっ、ちょ、」
はしゃいだ様子の堀川に手を引かれ、部屋の外へ出る。
丁度向かいにある部屋は堀川の部屋となっており、一番目の兄である山伏の部屋はその隣にあった。気の抜ける鼻歌を歌いながら廊下を進む堀川は、これまで見たことがないほど上機嫌である。そこまで曲を気に入って貰えたのかと思えば悪い気はしなくて、国広は緩んだ口元を隠すように顔を俯けた。
「山伏のきょうだーい!」
目的の部屋の前にて。山伏の名を呼びながら、堀川が扉を三度ノックする。
「カカカカカ、元気が良いなぁ兄弟!」
バァン! という大きな音を立てて、部屋から山伏が顔を出した。
短く切り揃えられた天然物の鮮やかな青髪は、左サイドの髪だけが編み込めるほど長く伸ばされている。筋肉隆々とした健康的な肉体美と、雄々しくも整った顔立ちを持つ溌剌とした好青年。この男こそが、堀川兄弟の長男であり、堀川プロの次期社長となることを約束されている山伏国広その人だった。
「して、何用か? 親父への伝言なら拙僧が預かっておくぞ」
突然の訪問にもかかわらず満面の笑みで出迎えてくれる彼に、自ずと国広の肩から力が抜ける。
「聞いてよ! 山姥切の兄弟が作った曲、すごい良かったんだ!」
「何!? どれどれ、拙僧にも見せてくれ!」
堀川が握り締めていた楽譜を渡す。食い入るように譜面を見つめた山伏は、ややあってニヤリと笑って言った。
「暫し待て」
ドタンッ!
また凄まじい音と共に扉が閉められる。いい加減壊れるんじゃなかろうか。心なしか建て付けが悪くなってきたように思える扉を前に、堀川と二人で待ち惚けを食らう。一体どうしたというのだろう。
だが山伏が二人を待たせたわけは、その後すぐに明らかとなった。
「待たせたな。よし、では行こう!」
堀川家の地下には、急なレコーディングにも対応出来るように設備の整った防音室がある。部屋から出てくるや否や、山伏は戸惑う二人を引き連れて、迷いのない足取りでレコーディングルームへと向かった。
「あぁ、言うのを忘れていたな。二人とも楽器を持ってきてくれ」
「楽器……?」
「わかった! じゃあ兄弟のギターもついでに取ってくるよ!」
心得たとばかりに駆け出す堀川。何が何だかわけがわからない国広は、その場で唖然と立ち尽くす。そんな国広を尻目に、山伏は備え付けられたドラムの慣らしを始めてしまい、そこにきてようやく彼の目的を察した。
「セッションするぞ兄弟!」
「はぁ!?」
「お待たせー! 取ってきたよ兄弟のギター!」
堀川から愛用のギターを手渡される。堀川の肩からは彼愛用のベースが吊り下げられており、既に準備万端といった様子だった。暴走しがちな山伏のストッパー的な役割に回ることの多い彼は、されど今回ばかりは自身もかなり乗り気なようで、国広の戸惑いを他所に颯爽とアンプの調整に入ってしまう。
「……セッション」
もう随分と久しくやっていないそれ。長義と別離してからというもの、他人に己の音を委ねる感覚を嫌忌するようになった国広は、戯れに音へ触れる機会があっても本格的なセッションは避けてきた。山伏たちとて、そんな国広の事情をすべて理解した上で、今まで何も言わずにいてくれた筈だ。だというのに、何故今更……。
「そろそろいいんじゃないの、兄弟」
「……っ」
顔色を真っ青にした国広へ、堀川がいつも以上に優しく言葉をかける。
「あれからもう二年だ。前の事務所の活動禁止制限も、来月には明けるでしょ? ……それに僕は、兄弟の書く曲が大好きなんだ。譜面から音楽への愛がとても伝わってくる。優しくて、温かくて、でもそれ以上にとても苦しそうで……」
「きょうだ、」
「だって、勿体ないじゃない。あんなにいっぱい最高の曲を書いていても、誰もそれが兄弟が書いたものだと知らないなんて。僕は言いたいよ。『どうだ、凄いだろ! この曲は僕の弟が書いた曲なんだよ!』って」
「うむ。拙僧も堀川の兄弟の意見に全面同意である。兄弟、恐れる気持ちは誰しもが持つもの。己の恐怖から逃れんとするのは決して悪しきことではない。だが逃げ続けるばかりでは何も得られぬ。向き合うことも、これまた修行なり」
ギターを持つ手が、震えた。
嫌悪からでも、恐怖からでもない。興奮故に。血が騒ぐとでもいうのか。バラバラの音が一つになる感覚に溺れたい。もう一度、あの蕩けるような快感を頭から浴びせられたい。本能を揺さぶる渇望と激しい欲求に、横っ面を殴り飛ばされたような、そんな鮮烈な衝撃が走る。
一気に視界が拓けていって、古びた映画みたいな白黒の世界が、極彩色に色づいていった。
――ドクン。
心臓が、期待から脈打つ。
「……セッション、しよう」
「……っ兄弟!」
「まだ、無理かも知れない。だが……兄弟たちとなら、出来る気がする」
「カカカカカ! そうと決まれば修行を開始するぞ! 兄弟!」
アンプの電源をオンにする。
イラコライザーの数値はすべて五メモリへ。クラシックゲインのクリーンな音を損なわない程度に、弦を弾きながら徐々にベースのメモリを上げていく。この音作りの瞬間が好きだ。誰も知らない、頭の中だけで掻き鳴らしていた白いギターの嬌声を、現実のものにしてゆく、この瞬間が。これからすることへの期待に胸がはち切れそうになりながらも、己を焦らすかの如く音を弄くり回す。異常なほど気が昂ぶっている自分に気づいて苦笑した。
「兄弟、始めてくれ」
「相分かった!」
「ふふ、僕の準備もバッチリだよ」
それはまるで、嵐のような演奏。
まだ歌詞もない未完成な曲。にも拘わらず、部屋中に響く音の一つ一つに言霊が宿っていた。
――怖じ気なんてクソ食らえ!
山伏の胃の腑を突き上げるような力強いバスドラの音が、ビリビリと空気を震わせる。
――早く俺を見つけてみせろ。俺はここにいる!
一歩引いたところから控えめに奏でられる堀川のベースが、バラバラの音を一つに纏め上げていった。
荒々しい数多の咆哮が、一つの塊になって真正面からぶつかってくる。息が苦しい。迫力ある音の圧が、容赦無く国広たちを襲った。しかし三人の顔は笑っていた。『今』が楽しくて仕方がない、終わりたくない。そんな無邪気な子どものような顔で、夢中になって己の楽器を掻き鳴らし続けた。
「……ッはぁ、は、」
曲が、終わる。
譜面に刻まれた終止線までの時間が、あまりに早く感じた。演奏を終えた三人は、唖然としたまま程良い疲労感の余韻に浸り続ける。
「……気持ち良かった」
そう言い出したのは、果たして誰だったか。
「兄弟、」
「……?」
「……バンド、組もう」
するりと口から滑り落ちた言葉。吐き出した張本人も、それを耳にした二人も、大きく目を見開いて驚きを露わにする。
「いや、違う……つい、」
「組もう!」
急いで撤回しようとした国広の腕を、堀川が前のめりで掴み取る。
「えっ、だが兄弟はもう……」
「《新撰組》のことなら大丈夫! 掛け持ちしてる人なんていくらでも……てのは、ちょっと言い過ぎだけど。実際何人かいるし。ほら、《CHEVALIER》の燭台切さんとかそうだったよ! だから全然問題ないって!」
「いや、待ってくれ。兄弟は今でも十分忙しいし、これ以上負担をかけるわけには、」
「カッカカカ! 珍しい弟の頼みだ。聞いてやらんわけにはいくまい! 拙僧も仲間に入れてもらうぞ!」
「山伏の兄弟まで……」
バンド名はどうしようか?
なんてはしゃぐ堀川たちを見ていたら、何だかこちらまでソワソワと落ち着かない心地になってくる。これでは学生の文化祭のノリだ。だが、別に構いやしないか。本格的にプロとして活動を始めるわけでもなし。あくまで趣味の範疇なのだから。
「《KUNIHIRO BROTHERS》なんてどうだ!」
「う、うーん、それはなぁ……」
「いいと思う」
「えっ」
山伏の提案に国広が頷くと、引き攣った笑みを浮かべた堀川が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「わかりやすくていいんじゃないか。俺も《国広三兄弟》か《KUNIHIRO BROTHERS》で迷ってた」
「ブフッ」
とうとう堪えきれなくなった堀川が噴き出して、腹を抱えて笑い出した。
「そのまんま過ぎ……っ!」
「……ダメか?」
「あう……」
「……むむ、堀川の兄弟は、山姥切の兄弟のその顔に弱いのである」
「は?」
結局、思いつきで始まった即席バンドは、《KUNIHIRO BROTHERS》と名付けられた。
主に動画投稿サイトでのオンライン活動をメインとし、プロダクションには所属せずにあくまで個人で活動を行う。ざっくりした方針が決まったところで、一曲目のお披露目をいつにするかも決めた。
全員一致で決まった投稿候補日は、七月一日。
それは、国広の活動制限期間が解除される日だった。
「投稿頻度はどうしようか?」
「書き溜めた曲が結構あるからな……理想は月一か」
「兄弟、《新選組》の仕事は最優先だからな。無いとは思うが、どちらかが疎かにならぬように」
「うん、勿論! ちゃんと両立させるよ」
とにもかくにも、これで後には引けなくなってしまった。楽しみな反面、不安も尽きない。
「よっし! 早速レコーディングの打ち合わせしようか」
後に《KUNIHIRO BROTHERS》は、彼らが思っていた以上に世間を賑わせることとなる。
どれだけファンたちが望んでも、今まで一向に表舞台に上がることのなかった、元《Gemini》の片割れたる山姥切国広。加えて、現役人気アイドル《新撰組》のサブリーダーたる堀川国広。さらには、あの堀川プロの次期社長子息である山伏国広までもがメンバーだという、話題性に事欠かないバンドグループ。顔と名前だけで持て囃されている道楽バンドかと、一部の人間が少々尖った目で見れば、そういうわけでもなく。彼らは実力も確かであった。
特に元国広ファンたちの反応は顕著だった。
一般人になってしまった推しを、それでも諦めきれず毎晩涙を濡らしていた彼女たちの、その歓喜ぶりたるや。動画が投稿されたその日は、一日中《KUNIHIRO BROTHERS》の名前がSNSのトレンド入りをし続けるほどの、狂喜乱舞ぶりだった。
その後、彼らは最初の動画投稿から僅か一ヶ月足らずで、バンド形式の三人組アイドルユニットとしてメジャーデビューを果たすこととなるのだが……この時、バンドを結成したてで浮かれ騒ぐ国広たちは、よもやそんな騒ぎになるだなんて知る由もないのであった。
*
「長義くん、お疲れ様」
徐に缶ビールを手渡され、長義は視線を上げる。
「お疲れさま」
「今日の公演、何だかいつもより気合いが入ってたね」
「……そんなことはないさ。いつも通り最善を尽くしたまでだよ」
ごくありふれた模範的な返答に、右目に眼帯をした端正な顔立ちの男が苦笑する。
「うーん、無理してるようには見えないから、大丈夫だとは思うけど……何かあったら僕に相談するんだよ。これでも一応《CHEVALIER》のリーダーだからね」
「あぁ、いつもすまないな、燭台切」
《CHEVALIER》
フランス語で騎士という意味を持つそのアイドルグループに、今長義は籍を置いていた。国広との別離から二年。周りと一線を画した実力者揃いの環境で揉まれ続けたことで、より己の実力を洗練させることが出来たと自負している。あの時は本当に、精神的にも肉体的にもキツかった。
分刻みで予定が組まれているスケジュール帳へ、さらに無理矢理捩じ込まれていくレッスン、コンサート、歌番組やバラエティ、ラジオの収録、雑誌の撮影……。国広のことを忘れるには、その多忙さは非常に有り難かったけれど、ものには何事も限度があるというもので。無茶が祟って何度か倒れかけては、事務所にもメンバーにも随分と心配を掛けてしまったのは、今となっては苦い思い出である。
しかし、人間とは順応の生き物である。そんな怒濤の如く忙しない日常の繰り返しに、ようやく身体が慣れてきた頃。《CHEVALIER》結成五周年を記念する五大ドームツアーの話が舞い込んできた。
《CHEVALIER 5th Anniversary Tour ~mon chéri~》
日本語で私の愛しい人と訳される、ファンへの感謝を込めた特別なライブタイトル。そんな一大イベントの初日にあたるのが今日、六月三十日に行われた東京公演であった。
「何はともあれ、怪我もなく全員一緒に最後までライブが出来てよかったよ」
「……そうだな」
動員数は概算で五万人以上。この規模の公演を、特に問題もなく最後までやりきったのだから、これは大成功と言っても良いのではなかろうか。
「皆、疲れてるのに集まってくれてありがとう」
そして現在、重要な初日を乗り越えた長義たちは明日がオフなのを良いことに、打ち上げという名の祝勝会をするため、燭台切の所有する都内のセカンドハウスへ集まっていた。
「いやぁ、それにしてもやっぱりドーム公演は圧が違ったねえ。緊張しっぱなしだったよ」
だらしなく襟ぐりを寛げた銀髪の男が、艶めいた流し目を送ってくる。
酒のせいでほんのり赤く染まった目元が、無駄に色香を醸し出しており、同じ男ながらに目のやりどころに困った。ケラケラと酒瓶片手に品のない笑い声を上げる様は、ただのおっさん以外の何者でもないのだが、どうしてこんなにも絵になるのだろう。永遠の謎である。
「おや? 大般若は前列の女の子たちを口説くのに夢中で、全然余裕そうに見えたが」
やいやい年長連中共が騒いでいると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた金髪の男が、大般若をチクリと刺した。
「はははっ、よしてくれ。あんなの口説いたうちには入らんよ。あれでとやかく騒ぐようじゃあ、小竜もまだまだお子様だな」
「お子様で結構。まったく良くやるよ。俺は女の子は清廉潔白な子でないと駄目だから、ナンパで引っ掛けた軽い子なんて論外かな」
グラスに注いだ白ワインをグイッと煽り、甘やかな作りの顔を歪ませて小竜が言う。少々奔放なきらいがある彼は、意外にも女の好みだけは潔癖なところがあった。
「はいはい、爛れた大人の会話はそこまで。それじゃ、次の名古屋公演も頑張ろうね。では改めて、乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯~」
「……乾杯」
本当はもう一人小豆長光というメンバーがいるのだが、彼は「家で小さな子どもが待っているから」と、公演が終わってすぐに帰ってしまったため不在にしている。ちなみにその子どもというのは小竜の弟のことなのだが……何故肝心の兄がここにいて、従兄弟である小豆が直帰しているのかについては、今まで誰も触れようとしてこなかったので、長義もまた右に倣って敢えて触れずにいる。
「そんなにスマホばっかり見てどうしたんだい?」
テーブルの上に置かれたまま、沈黙を保っているそれ。真新しい最新機種のスマホの方へチラチラと視線を向けていると、大般若に目敏く気づかれた。
「いや、別に……」
「あ、もしかして弟くん?」
一瞬、缶ビールを持つ手に力が入る。そんな長義の微妙な変化を鋭敏に感じ取った小竜が、すかさず便乗した。
「あー、キミと前にユニット組んでた子か。可愛い顔してたよね」
まったく、どいつもこいつも好き勝手言ってくれる。特に耳障りな戯言を吐いた小竜をキッと睨みつけて、長義は返した。
「あいつは関係ない」
今日から活動制限期間が明けるというのに、相談の一つもない薄情者め。
すぐに泣きついてくるかと思ったのにつまらない。国広は本気で芸能界に戻らないつもりなのか。あいつの考えていることがわからなかった。そして、国広のことで己が把握しきれていないものがあるという事実に、こんなにもイライラさせられる。
「弟くんといえば、この前選んだプレゼント、喜んでもらえたかい?」
「ん? プレゼント? 誕生日か何かだったのか」
国広の誕生日は先月だった。とうに過ぎている。確かに国広の誕生日が近づくにつれて、腹立たしいほど陰気なツラが思考の端の端の端くらいを掠めたのは否定しないが、だからといってわざわざプレゼントを用意するだなんてありえなかった。自分から手放しておきながら、どの面下げて渡せというのだ。
なので先月購入した三桁する高級腕時計は、誰が何と言おうと自分用である。気分でプレゼント包装してもらったし、何となく未開封の状態のまま箪笥の奥にしまい込まれているけれど、誓ってあれは自分用である。大切なことなので二度言った。
「あいつにプレゼントなんて俺が用意するわけないだろう。勝手な憶測でものを言うのはやめてくれないかな」
「あんなに南泉くんに相談してたのに……その南泉くんの相談に乗ってあげてたのは僕なのに……」
「嘘だろ」
あまりに信じ難い事実を暴露されて、口端が引き攣る。猫殺しくん……君、一生許さないからな。覚悟してろよ。密かに長い付き合いの悪友へ地獄の嫌がらせフルコースをお届けすることを決意して、長義は気を取り直して言った。
「……相談じゃない。あれはただの愚痴だ。あいつが薄情にも二年も連絡を寄越さないから」
「長義くん、それはちょっと無理がある気が……」
「ヒュ~、二年も音信不通なのかい? そりゃあもう自然消滅ってやつじゃあ、アッ」
「あーあ……」
精神年齢の低い大人たちの空気が固まる。
自然消滅ってなんだよ。洒落にならない例え話は本気でやめろ。いっそのこと目の前のローテーブルごと蹴り飛ばしてやりたかったが、そんなことをすれば長義が国広に対して抱えているあれこれが全部筒抜けになってしまうので、必死に耐えた。酒で涙腺が緩んでいるせいで、何なら少し泣きそうになっている。
「……時には女心を汲み取ってやるのが、いい男ってもんだよ少年」
ふ、と哀愁を帯びた瞳で遠くを見つめながら、大般若が長義の肩を叩く。やかましいわ。ぶった斬る勢いでその手を振り払うも、そんな長義の動きを察知した大般若にするりと躱されてしまった。本気で人に殺意を覚えたのはこれが初めてだ。
「大丈夫さ。女の子はこの世に星の数ほどいるからね。お兄さんは、楚々とした清廉潔白な子をお勧めするよ」
「それなりに遊んでいる子も良いぞ。何せ本気になってくれた時は、誰よりも一途に想ってくれるからな。まぁ、ストーカーになった時の処理が面倒なのが、偶に傷だが……」
「もう、あんまり茶化しちゃ可哀想だよ。長義くんは純粋なんだから」
「うるっさいな! いい加減にしろ!」
ピリリリリリッ!
その時、謀ったようなタイミングで、聞き慣れない呼び出し音が長義の怒鳴り声を打ち消した。机の上の長義のスマホはブラックアウトしたまま、特に通知が届いた様子もない。となると他の誰かか。
「はい、燭台切です。どうしたの?」
暫く大般若たちと犯人捜しよろしく視線を彷徨わせていると、燭台切が尻ポケットからスマホを取り出した。画面を見るなり躊躇うことなく電話に出た彼は、その場で何のてらいもなく話し始める。口調からして気の置けない仲の人物から掛かってきたのだろう。ここで会話を続けているということは、長義たちに聞かれても大丈夫だと判断したのか。ならば野次馬精神を抑える必要もなさそうだ。
「なんだ、燭台切だったのか」
大般若が名残惜しそうに長義のスマホを見る。まだ揶揄い足りないと顔に書いてある男の存在を、長義はガン無視してやった。
「やたらと親しげだねえ。女の子だったりして」
「……興味ないね」
「拗ねるなよ。大般若の言うことなんて気にするだけ無駄だぜ。そーら、飲め飲め。失恋には酒が一番だぞ」
「だから失恋じゃない!」
「え? うん、あるよ。カバンに入れっぱなしだけど」
うん、うん、と相槌を打ち、燭台切がソファから立ち上がる。その後彼は一度リビングから出て行き、今度はタブレットを持って帰ってきた。
「知ってるよ。うん……」
タタタ、とリズミカルにタブレットの画面をタップして、燭台切が素早くインスタを立ち上げる。何をするのか気になって三人一緒にその画面の中を覗き込んでいると、気を利かせた燭台切が画面を見やすいように傾けてくれた。ここまでしてくれるということは、仕事の関係か、それとも参考になる講義系の動画か。これから何が映し出されるのか弾む気持ちで待機していれば、しかし次の瞬間聞き捨てならない名前を耳にして、長義の機嫌は氷点下まで急降下した。
「堀川くんのリンクでいいんだよね? わかった、これね。オーケー……音? ミュートにしてる。わかった、解除したから……あはは、そんなに? 珍しいね鶴さんが」
「なんだあ、鶴丸さんか」
「鶴丸って、《BADASS》の鶴丸国永か? 燭台切の掛け持ち先のメンバーの」
「そうそうその人。仲良いんだよ、あのグループ。いつもなら電話じゃなくて、直接ここへ乗り込んでくるぐらいのことはするんだが、今日は珍しいな」
(堀川……?)
堀川国広。長義から国広を奪っていった堀川家の次男の名前だ。
芸能界で隣に立つことが叶わないのなら、せめて目の届く範囲には置いておきたい。そんな思いから長義が色々と山姥切家へ根回ししている間に、まんまと国広を横から掠め取っていった、あいつの異父兄弟の内の一人。
(俺以外の、あいつの特別)
憎らしい。長義と同じ、片親だけの繋がりのくせに。どうして何の躊躇いもなくあれに触れられる。この反吐が出そうになる背徳感も罪悪感も知らぬまま、当然のような顔をしてあいつの傍にいることが、どれほど稀有な幸せなのか。一度たりとも考えたことすらないくせに、どうしてあの男たちだけ……嫉妬で気が狂いそうになる。
あの家さえなければ、国広の特別が己だけだったなら。あるいは国広が、山姥切家ではなく堀川家を選びさえしなければ。
(いや違う……何度繰り返したってあいつは絶対に堀川を選ぶ。俺はそれだけのことをした。わかってる……だがあいつらさえ、いなければと……)
こればかりは理屈じゃない。どれだけ理性で押し込めたって、気持ちが追いつかないのだ。無駄だとわかっているのに、ふと脳裏を過ってしまう『もう一つの可能性』。それだって、限りなくゼロに等しい確率でしかないと長義は知っている。知っている筈なのに。
「えっ」
「なんだ、どうした」
「おお、凄い本格的じゃないか。これ非公式なのかい?」
「……っ」
唐突にタブレットから流れ出した大音量に、ハッと我に返る。軽くどよめいた三人の視線の先を目で追うと、先ほどまで読み込み中の画面表示だったそこに、湾曲した文字が浮かび上がっていた。
《RE:START》
何かのMVのように見えるが、これは。
《作詞作曲 ヒロ》
「ヒロだって!?」
大般若が素っ頓狂な声を上げる。
「偶に《新選組》に楽曲提供している作曲家じゃないか。悉くヒット曲を手掛けている……」
「それだけじゃない。ここ見てみろよ。ギターボーカルもヒロって書いてあるぞ」
「なに!? ヒロが歌うのか!? 顔出しNGじゃなかったのか!」
(作曲家のヒロ? それが堀川と何の関係が、)
そこで長義は、ヒュ、と鋭く息を呑んだ。
真っ暗な空間に照明が灯ってゆく。パッと見ただけでわかる、アマチュアが使うようなチャチな作りのスタジオセットだ。しかしそれが却って、これは完全に趣味の範疇の作品なのだと、強く主張している風にも映った。そんな、雑然とした場所で静かに佇むのは、三人分の男のシルエットで。
「……国広」
儚げな容姿とは裏腹に、挑発的にこちらを睨みつける翡翠の双眸。透けるような白い肌と、薄ら色づく魅惑の唇。無造作にセットされた金糸雀色の髪が、スポットライトに照らされキラキラと太陽のように輝いている。
(あぁ……)
見間違えるわけがない。あれはあいつだ。ずっと渇望してやまなかった男の姿が、今目の前に在る。その時、長義は呼吸を忘れた。ただひたすらに、金糸雀色が揺れる画面の一点を見つめ続ける。
『……ヒロこと山姥切国広だ。ギターとボーカルを担当している。見ての通り、兄弟たちとバンドを始めました』
『《新撰組》所属、兼さんの助手こと堀川国広です。知ってる人もそうでない人もこんばんは! 今日はこの動画を観に来てくれてありがとう。最後まで楽しんでいってね。あ、僕はベースとコーラス担当です』
『山伏国広だ。ドラムとコーラスを担当させてもらう。二人とは違い拙僧はあくまで一般人であるが……偶には兄の良いところも見せねばならぬからな。これもまた修行。全力で演るまでよ! カッカカカカ!』
山伏の勢いに気圧されている間に、画面の端で「兄弟」と堀川からせっつかれた国広が咳払いする。人の目を意識すると極度に声が固くなる癖が、未だに直っていないらしい。あの頃と変わらぬところを見つけては、長義はホッと胸を撫で下ろした。一方で、そんな未練たらたらな自分のことを、心底嫌悪する。
『……あー、見ての通り俺は元気です。ご心配おかけしました』
ぺこり。
ひょこりとアホ毛が飛び出た旋毛が、画面に晒される。無性にその髪に触れたくなった。最悪だ。この二年で大分マシになったと思っていたけれど、まったく忘れられていないじゃないか。
「……ハハッ」
渇いた笑いが漏れる。お前は何も知らないで、いい気なもんだ。本当に。血が滲むほど強く唇を噛み締めて、何とか正気を保つ。予期せぬ形で再会した喜びと、堀川たちに向けた強烈な妬みと、理不尽な怒りで頭がおかしくなりそうだった。否、きっともう長義は、とうの昔にイカレている。
血を分けた弟のことを性的な意味で愛していると自覚した、あの時から。
『それでは、聴いてください。《RE:START》』
すぅ、と国広の目が細められる。がらりと男の纏う雰囲気が色を変えた。これは一体、誰だ。
「……っ」
国広であることに間違いはない。だが、彼を構成するすべてが、己の知るものとまるで違っていた。アイドルをしていた頃より幾分かやつれたその姿。少し刺激を与えれば、今にも崩れてしまいそうな儚さがある反面、その瞳に宿る炎の苛烈さに惹きつけられる。
あの頃にはなかった、壮絶なまでの凄みと色気。
血の滴る肉を目の前に置き去りにされた獣のような、そんな危うさ。
『……ふ、……ありがとうございました』
「……」
もう、終わったのか?
一曲をこれほどまで短いと思ったことはなかった。そう感じたのは長義だけではなかったらしく、動画を視聴していた他の三人もまた、ポカンと口を開けて呆気に取られている。
『また新曲が出来上がったら投稿しにきますね。それでは、ご視聴ありがとうございました!』
プツン、という音と共に動画が停止した後も、暫く誰も声を発さなかった。というよりも、発することが出来なかった。圧倒されてしまって。
『な! な! 光坊! 俺の言った通りだろ! すっげぇイカしてるだろ!?』
燭台切が持つブラックカラーのスマホから聞こえる鶴丸の声が、いやに部屋に響く。
(なんて奴だ)
こんなものを見せつけられて、手を伸ばさない人間などいるのだろうか。
(アレが、欲しい)
長義が抱える国広への執着が、尋常ではないことは自覚していた。
このままではいつか駄目になる。そう悟ったからこそ手放した。自分ではきっと、あいつを幸せに出来ない。長義が傍にいては、国広はいつか潰れてしまう。己の限界を感じたからこそ、あのタイミングで離れる道を選んだ。それがあの子のためだと、本気でそう信じていた。
――哀れで可愛い俺の弟。お前の恐れるものは全部俺が追い払ってやろう。
遠い過去の話。交わした約束は、誓いは、決して嘘じゃない。あの子が怖いと泣くならば、何もかもを排除してやるつもりだった。それがたとえ、他ならぬ自分自身であっても。
「わぁ~、凄かったね。これ趣味の範囲で収めるのは勿体ないよ……すぐにメジャーレーベルからスカウトが来るんじゃない?」
でも、たった一つだけ打算もあった。
己が抱えるものの正体が、実はまったく別の何かであったとして。この化け物じみた執着こそが精巧に作られた偽物であったなら。この例えようのない激情を、純粋な家族愛であると証明できたとしたら。何の後ろめたさも感じずに、もう一度あの子に触れられるようになるんじゃないか、と。そんな、馬鹿げた期待を抱いてしまった。
そのせいで、あの子を傷つけた。身の程を知らず欲を出した、愚かな長義のせいで。
「外部に掻っ攫われるくらいなら、堀川プロが囲い込むだろうなあ」
「あ、そうか。あの二人って堀川プロの社長の息子だったね」
「うーん……だったら堀川プロ内に設立されてるレーベルからデビュー、っていうのが妥当かな。うちの事務所も欲しがったろうに、残念だね……長義くん?」
俺は馬鹿だ。どうして手放せると思ったのだ。こんなにも無尽蔵に想いは膨らみ続けているのに。今さら離れて生きていけるわけなんてないのに。
「長義くん、大丈夫かい?」
「……っあぁ、問題ない」
――長義、なぜ?
頭が痛い。吐きそうだ。越えてはならない一線へ足を踏み入れてしまいそうになる。
――教えてくれ。全部直すから。
何度も、何度も、繰り返し再生される光景。長義に縋る国広の、涙混じりに懇願する姿が、二重にブレる。
(くにひろ、)
たった五文字。長義が国広へ伝えたい言葉は、いつだって一つだけだ。
されどその言葉こそが、何より忌むべき禍言であった。
(『愛している』と、そうお前に伝えたならば、まだ俺の腕の中にお前はいてくれただろうか)
どれだけ世間から持て囃されたところで、お前のいないこの場所は酷く、寒い。