*Scandalous Love

TOUKEN RANBU
 第三話 再会

 堀川プロの現社長から呼び出されたのは、国広たちが動画を投稿したあの日から一週間が経った頃だった。
「忙しいところすまんな」
 初めて足を運んだ事務所の社長室。壁一面を埋め尽くす大型のコレクションケースの中には、歴代の所属タレントたちの写真や、彼らが授与した賞関係のトロフィーだのサイン色紙だのが、整然と並べられている。隙間なく著名人たちにまつわる品々が詰め込まれたその様は、本来ならばもっと威圧的に感じても良さそうなのに、まるで親が愛する我が子の写真を机に飾っているかのような、そんな所帯じみた温かさを感じるのが不思議だった。
 手入れの行き届いた様子からしても、この事務所がいかに所属タレントたちを大切に扱っているのかがよくわかる。純粋にいい事務所なのだな、と国広は感心した。
「……いえ。話ってなんでしょうか」
「あぁ……君のことは息子たちからよく聞いている。最近彼らとバンドを組んだのだとか」
「はい。その、……山伏さんと堀川さんには、いつも大変お世話になっています」
「はは、そんなに畏まらなくていい。君も私の息子のようなものだからね」
 国広の母の元夫。離婚の原因は社長の浮気であったと聞いているが、この誠実そうな男がどうしてそんな真似をしたのだろう。男女には色々とあるのだ、と不機嫌そうに言い放った母の顔を思い出して、国広は眉根を顰めた。
「……自分のような者が、恐れ多いです」
「こらこら、そう自分を卑下するな。君は自分で思っているよりもずっと『価値がある人』なのだから」
 ひくり、と握り込んでいた拳が反応する。
 価値のある人と、男は確かにそう言った。ここへ呼び出された理由は何となく想像がついていたけれど、やはりそういう意味での呼び出しだったのか。
「回りくどい話は好きじゃないんでね。単刀直入に言わせてもらおう。山姥切国広君、うちからデビューする気はないか?」
 そらみろ、言わんこっちゃない。一番に思ったことはそれだった。
「……すみません」
「いや、謝らなくていい。予想はついていた」
 聞けば山伏と堀川からも、国広がこの話を断るだろうと言われていたのだという。それでもデビューの話を持ちかけたということは、彼は彼なりに勝算があったのかも知れない。
 しかし、どんな好条件を持ち出されたとしても、国広は首を縦に振るつもりは毛頭なかった。もう芸能界は懲り懲りだ。沢山のしがらみに捕らわれて、得意でもないのに人の顔色を窺って、自尊心などかなぐり捨てて媚び売って……そこまでしてしがみついたあの場所も、結局失くしてしまった。
 アイドルとしての自分は、既に死んだのだ。
 死者は蘇らない。魔法でもない限り、永遠に。
「今まで露出を控えてきた君が再び表舞台へ戻ったことで、君を欲しがるものたちが挙って動き出す筈だ」
「……っ」
 国広の心中を置き去りにして、尚も男は話を続ける。
 不穏な未来を予知する言葉に顔を強張らせた。そうだ。そうだった。自分はそのつもりがなくとも、周りは勝手に騒ぎ出す。二年前だってそうだった。
「君は才能溢れた人だ。今はまだ、私の息子たちが防波堤となって、君へ近づこうという輩を牽制してくれている。だが時間が経って、君と堀川プロの間に何ら繋がりはないと知られた時……君の周りは一気に騒がしくなるだろう。そのことも踏まえて、もう一度考えてみて欲しい」
「……あの、」
「君の人生だ。ゆっくり考えるといいさ。何なら息子たちに相談してみるといい。山伏も、ああ見えてしっかりした子だ。きっと力になってくれる」
 突然すまなかったね。
 最後にそう謝られ、国広は部屋を後にした。
 ――君と堀川プロの間に何ら繋がりはないと知られた時……君の周りは一気に騒がしくなる。
 堀川社長の言葉が、ずっとぐるぐると脳内を巡っている。二年前の記憶はわざわざ思い出そうとせずとも、嫌でも鮮明に蘇った。
 カメラのフラッシュの眩しさ、無粋なシャッター音、こちらの事情など一切無視した好奇の視線。にこにこと人好きの良い笑顔で近づいてきた大半の者たちが、芸能事務所の関係者で。フリーとなった国広を己の事務所へ引き抜き、一儲けしようという魂胆が透けて見えていた。
 そこに国広を一人の人間として扱おうという意思は存在しなかった。檻に入れられた愛玩動物の方が、まだ配慮されている。テレビで特集を組まれていたパンダの赤子たちが、大事そうに飼育員に抱えられながら「ストレスになるので暫く人目のない場所で育てます」なんて言われているのを聞いた時は、鼻で笑ってしまった。
「……デビュー、か」
 あの場所へ戻ったところで、自分はやっていけるのだろうか。もう、隣に長義はいないのに。
「ん?」
 ブー、ブー、ブー。
 尻から伝わる振動によって、沈みかけていた意識が浮上する。ジーンズのポケットへ適当に突っ込んでいたスマホが、断続的に振動しているようだった。タイミング的に母からの電話なような気がして、国広はすぐにスマホを取り出す。
「えっ」
 画面に表示された電話番号を見て、声が出た。
 何度見返しても表示は変わらない。連絡帳から削除したところで、頭は勝手にこの数字の羅列を覚えている。忘れたくても忘れられなかった、あの男の電話番号。この二年ずっと、彼とは一切連絡を取っていなかったというのに、何故今になって。
(早く、出なければ……)
 タップしようとする指先が震える。しかし、もたつけばもたつくほど、はっきりとした輪郭を得た過去の幻影が、生々しい現実感を伴って悪夢を見せてきた。
 ――解散しよう。
 冷たい声が、頭の中に木霊する。またあの声で突き放されたらと思うと、その場に膝をついてしまいそうになった。動け、動けよ。もう俺は、あいつがいなくたって大丈夫だ。大丈夫になったんだ。また毒の一つや二つ吐かれたくらいで、それが何だ。
「……クソッ」
 凍りついた思考を叱咤して、ぶんぶんと勢いよく頭を振る。とにかく、電話に出なければ。切れてしまう前に、早く。
「……はい」
 びっしょりと手汗をかいた掌で、耳元へあてがったスマホを握り締めた。時間が途方もなく長く感じる。今にも倒れてしまいそうなくらいに青ざめた顔をして、国広は相手が話し出すのを待った。
『もしもし、国広くん?』
 されど電話の向こうの相手は、予想した人物ではなかった。
(誰だ?)
 一瞬乱された思考を立て直すために、深く息を吸い込む。べっとりと塞ぎ込んだ声帯を、無理矢理こじ開けた。
「……そうだが。あんたは?」
『あぁ、名乗りもせずに失礼した。俺は大般若長光という。長義のグループメンバーだ』
 胃の腑がぎゅっと縮こまった。胸が痛い。彼が新しいグループへ移ったことは、テレビで見て知っていた。それでも、やはり実際に彼に近い者から聞かされると、色々とクるものがある。
「……っなぜ、そんな人が俺に、」
『突然悪いね。急ぎあんたの耳に入れておきたいことがあって――ちょっとごめん。燭台切、繋がったぞ。ん? ……わかった。伝えとく』
 大般若の声以外に人の声が入り込む。《CHEVALIER》のリーダーである、燭台切光忠のもののようだ。
 それにしても、やたらと後ろがざわついているのが気に掛かる。仕事中にしては騒がしいし、何だか落ち着きがない。状況を把握しようにも、漏れ聞こえる雑音が多いせいで、上手く燭台切と大般若の会話が聞き取れなかった。
 嫌な予感がする。そして、そんな国広の予感はやはり的中していた。
『待たせたね。周りがうるさくてすまない。あー、落ち着いて聞いてくれよ』
 ――長義が倒れた。
「……っ!」
 耳元からミシッという悲鳴が上がった。慌ててスマホを持つ右手から力を抜く。
 倒れた? あの「自己管理を徹底しろ」と口酸っぱく言っていた完璧主義の長義が? にわかには信じ難かった。あの男でも調整出来ないほどに、多忙を極めていたとか? あの事務所はタレントを使い捨ての駒のように扱うところがある。国広がいた頃は、売れている者ならそれなりに大切に扱われていたようだったけれど、まさか方針が変わったとか……? 
『幸い頭を打ったりはしてない。医者の見立てでは過労が原因だという話なんだが、自宅へ帰すにしても、彼は寮じゃなくて一人暮らしだろう? 国広くんが彼の家で介抱してくれるとありがた――』
「わかりました。すぐに向かいます」
 そう答えるのに、躊躇いはなかった。
 それまで悶々と考えていたあらゆることが、長義が倒れた衝撃で頭から吹っ飛んでしまい、他のことを考える余裕が皆無であったからだ。
『なんだ……思っていたより関係は良好……なのか?』
「……? あの、なんて?」
『いやいや、何でもない。助かるよ。長義のマンションはわかるかい?』
「はい」
『なら、君が来るまで小豆が長義を見ていてくれるそうだから、マンションに着いたらインターホンを鳴らしてくれ』
 それじゃ、よろしく。
 簡素な別れの挨拶だけ言って、大般若が通話を切る。
 沈黙したスマホを尻ポケットへ戻して、国広はすぐに走り出した。嘗て、ぐちゃぐちゃに丸めて捨てた筈の、長義の家への順路が載った、古びた地図を思い起こして。

 都内の一等地に建てられたセキュリティ万全の高層マンション。その最上階とまでは言わずとも、上層階に位置する長義の部屋は、相も変わらず極端に物が少なくて寒々しい。
 キッチン横の壁に埋め込まれた大型テレビと、それを囲むように設置されたL字型のソファ。ところどころ貼られたアクセントクロスは、少し渋めなダークウッドカラーの木目調で統一されている。さらにはヴィンテージものの振り子時計や観葉植物まで陳列されているとなると、人が生活するための空間というよりは、不動産屋のパンフレットか何かに載っているモデルルームのようだった。
「とつぜんのことでおどろいたろう。すぐそこのだんごやで、みたらしをかってきたんだ。よかったらたべてくれ」
 小豆長光という男は、ゆったりと物腰柔らかに話す優男だった。
 初めて彼と相対した時は、その大柄な体格に若干威圧感を覚えたものの、一言喋ってみればその穏やかな雰囲気にすっかり気が緩んでしまって。加えて世話焼きな性格のようで、その身一つで駆けつけてきた国広にも「めしはたべてきたのか?」や「ここはあまりちょうりきぐがなくて……もてなしてやれなくてすまないな」などと逐一気遣ってくれるとなれば、流石の人見知りが激しい国広とて心開かざるをえなかった。
 流石は国民的超人気アイドル。外見だけでなく中身まで完璧だ。
「長義はいましんしつでねている。れいぞうこになにもはいっていなかったから、さいていげんのものはかっておいた。それと、いしゃがこれからねつをだすかもしれぬといっていたから、ひえぴたのたぐいもかってある。なにかきになることはあるか?」
「いや、特にない。色々と手間をかけさせてしまってすまなかった」
「ふ、そういうときはあやまるのではなく、れいをいうといい。あとはたのめるか?」
「あぁ」
「なにかあったらここにれんらくしてくれ。わたしのれんらくさきだ」
「恩に着る」
 最初から最後まで紳士的な男だった。
 暫く連絡先の書かれたメモ用紙をぼうっと眺めてから、自分のスマホに小豆の番号を登録する。ラインのIDも書かれていたので、そちらも有り難く追加させてもらった。早速『よろしくお願いします』のスタンプを送ってみると、『よろしく!』と言いながらぺこぺこと頭を下げる子猫のスタンプが返ってくる。
「かわいい」
 しまった。めちゃくちゃドストライクだったので、つい購入してしまった。
「……さて、やるか」
 腕まくりをして気合いを入れる。
 長義の家の勝手は大体把握していた。昔、この家にはよく泊まっていたからだ。
 泊まりが多かった理由については、別に特筆することなど何もない。ただ、誰もが想像するような微笑ましいそれでないことだけは確かだった。まだ二人で《Gemini》として活動していた頃。仕事で帰りが遅くなった国広が、その辺のセキュリティの甘いホテルに泊まることを、長義は断じて許さなかった。なので結果的に、事務所からほど近いこの家に泊まる以外、選択肢が与えられなかった……ただそれだけの話である。
「もう捨てられていると思うが……」
 思い出に浸るのもここまでだ。思考を切り替え、まずは手始めに国広の着替えを探すことにする。
 今晩はここに泊まるつもりであった。目覚めた長義から出て行けと言われようとも、そこは絶対に譲らない。しかし、堀川プロの事務所から直接長義の家へ駆けつけた国広に、泊まりの用意をするだけの余裕などある筈がなく。今ここにあるのは財布とスマホ、それから定期とこの身体くらいのものだった。
(確か、上から三番目の引き出しにあったはず)
 衣装部屋の中にある、箪笥の引き出しへ手を掛ける。期待はしていなかった。長義のあの性格だ。不要なものはとことん斬り捨てて、もう二度と振り返ることはない。己に必要なものとそうでないものの線引きがはっきりしており、不要と判断されればそれまでどれだけ大事にされていても、一瞬で彼の興味の範疇外へ追いやられる。
 だから、あの男がこの家に国広の痕跡を残しているわけがない。そう思っていた。
「……っ」
 ――丁寧に畳まれた国広の着替えが、箪笥の中に仕舞い込まれているのを見るまでは。
「……なんで」
 季節外れな厚手のセーターを取り出す。クリーニングに出したようで、タグが付けっぱなしになっていた。
「……っ、」
 じん、と鼻っ柱が痛む。視界が歪んだ。泣くな、これくらいのことで泣くな。何度も自分に言い聞かせても、それまで閉じ込めていたものが一気に溢れてきて、抑えきれなくなる。
「……何故なんだ、長義」
 こんなことをしている場合じゃないと理解していても、心と身体はバラバラに出来ているようで、ちっとも言うことを聞いてくれやしない。
 あの男はどんな思いで、これを畳んで仕舞ったのだろう。自分のテリトリーに他人を招き入れることを酷く嫌う彼が、家政婦すら拒否していたのを知っている。だとすれば、国広の服をクリーニングに出して、畳んで、ここへ仕舞い込んだのは、他でもない長義自身ということで、
「……、ふ……ぅ」
 堪らない気持ちになって、手に持っていたセーターを掻き抱いた。
 心なしかあの男のフレグランスの香りがする。ようやく薄れたと思っていた消せない傷も、思い出も、そのすべてが一斉に息を吹き返しては、次々と芽吹いていく様を、国広は静かに受け入れた。

 花嵐の如く散り乱れる、鮮烈な情景。

 蕾のまま凍りついていた花が、ゆっくりと綻んでゆく。自らを覆う霜を押し上げて、降り積もっていた雪を払い落とし、パキパキと音を立てながら生まれ落ちたこの感情に、何と名前をつければ良いのだろう。
「……」
 ひとしきり涙した国広は、やがてふらふらと首の据わらぬ赤子のように面を上げた。
 未だ停滞した思考回路は復活の兆しを見せない。それでも、雨上がりの空を見上げた時のような、どこか晴れ晴れとした気持ちになっている自分がいて。まずはあの、どうしようもない男のために夕餉でも作ってやるかと、重い腰を上げたのだった。

 案の定、長義は夜に熱を出した。
 すぐに目を覚ますようなら粥でも食べさせようと思っていたのだが、どうやら起き上がることすら出来ぬほど、彼の身体は衰弱していたらしい。国広が一晩中付きっきりで介抱した甲斐あって、明け方には大分熱は下がってくれたけれど、それでも彼が意識を取り戻すことは一度もなかった。
「ん……?」
 いけない。いつの間にか眠っていたようだ。
 柔らかな何かが頭上を掠めたような気がして、国広は瞼を開く。すると、昨日は一向に見られなかった、懐かしい瑠璃色が視界に飛び込んできて、咄嗟に寝台へ預けていた上半身を起こした。
「なっ……! 長義!」
「寝起き早々うるさいな……」
「目が覚めたのかっ」
 口調はしっかりしているが、やはりまだ顔色が悪い。あれだけ辛そうにしていたのだ。調子を取り戻すまでは、もう少し時間がかかるかも知れない。
「熱は……もう引いたか。よかった」
「……っ気安く触るな」
 パシッと音を立てて、彼の額に触れていた掌が払われる。思っていたよりも、拒絶されたことに対して心は波立たなかった。何度も同じような態度を取られていたので、心が麻痺しているのだろう。そのことを寂しいとは思えど、それでも彼との関係を修復せんと一歩踏み出すことが出来ない自分が、一層情けなかった。
「……で、なんでお前がここにいるのかな」
 払われた右手を摩っていれば、突然季節が冬になったのかと錯覚するほどの冷たい声が降ってくる。やはりこうなったか、と苦笑を漏らして、国広はそっと視線を落とした。これだけ弱っていても頑なな態度を崩さないとは、まったく恐れ入る。
「大般若って人から連絡があったんだ」
「……チッ。余計なことを」
「お前が倒れたって聞いて……心臓が止まるかと思ったぞ」
 すると、長義が苦虫を噛み潰したような顔をする。口汚くクソッと吐き捨てて、彼は国広をせせら笑った。
「何だよそれ。お前が俺を心配したって? 心臓が止まりそうなほど? 寝言は寝て言うものだよ、偽物くん」
「寝言って……俺は本気で、」
「とにかく、お前はもう帰れ」
 取り付く島もないとはこのことか。
 何度か食い下がるも、長義はまったく聞く耳をもってくれない。これでは二年前の再現ではないか。平行線を辿る応酬にいい加減嫌気が差してきた国広は、ついに声を荒らげた。
「……俺には『自己管理は徹底しろ』と言ったくせに」
「なに?」
 国広の纏う空気が変化したのを察したのか、長義は訝しげに片目を眇める。
「お前、口ばかりじゃないか。人には自分のルールを押し付けておいて、自分は平気でそれを破るのか? ついにそこまで成り下がったか、山姥切長義」
「……っ」
 この男が一番突かれたくない場所を、素知らぬ顔で抉り抜いた。図星を指されてぐうの音も出ないに違いない。怒りのあまり血が出るほどに噛み締められた唇からはされど、いつものような罵声が吐かれるでもなく。男はただ悔しげに顔を歪めるだけに留まった。
「それと、俺は偽物なんかじゃない。山姥切国広だ」
「いちいち根に持つ陰険な男はモテないよ、俺の『偽物くん』」
「……フンッ。とにかく、お前が回復するまで俺はここに泊まるからな」
「は?」
「何を言われたって俺は帰らないぞ」
 先ほど箪笥から引っ張り出してきたスウェットの上下を、長義の目の前でひらひらと振ってやる。
「な、おま、それ……っ」
 さぁっと顔色を変えた男は珍しく動揺を露わにして、死にかけの魚みたいに口をはくはくと開閉させた。何かを必死に訴えようとしているのは伝わってくるが、生憎国広は「言葉にせずとも察しろ」と無茶振りされるのが一番イラつく質なので、敢えて汲み取ってやることはしない。
「都合のいいことに俺の着替えもあることだしな」
「勝手に人の家を漁るなんて、お前に常識は無いのか!」
「さてな。俺を親代わりに育ててくれた兄上の躾が甘かったようで。手癖が悪くなったのかもな」
「……! 調子に乗るなよ!」
 興奮した長義が躍起になって、国広の持つスウェットへ手を伸ばす。意趣返しがしたくなって、ヒョイッと上へ持ち上げてやれば、バランスを崩した男は呆気なく寝台へ倒れ込んだ。まだ本調子でないのに無理をするからそうなる。自業自得だ。内心舌を出していると、目を血走らせた長義が思い切り国広を睨みつけてきた。
「今すぐ火をつけて全部燃やしてやる」
「……過激だな」
「俺が動けないことに感謝しろよ、国広。俺が万全の状態だったら、お前は今頃死ぬほど後悔する目に遭っていただろうよ」
「そこまで、俺が嫌いか」
「……ッあぁ、嫌いだね!」
 ため息が落ちる。顔を合わせればいつもこうだ。売り言葉に買い言葉。まともに目を合わせて世間話なんて論外。仕事絡みの会話が最低限出来れば御の字といったレベルの仲の悪さだ。昔はこんなことはなかったのに。いつから、自分たちの関係はここまで悪化してしまったのだろう。何が理由で、どうして。
「……俺は、長義のことを嫌いになれない」
「っ!」
「だから心配もするし、困ってるなら支えたいと思う。あの家で朽ち果てるだけだった俺を、お前が救ってくれたように……お前みたいに、なれたらって……」
 痛そうに顔を顰めた長義が、気まずげに目を逸らす。これもまた、彼にしては珍しい反応であった。
 予期せぬ形で再会してからというもの、長義はらしくない行動を取り続けている。そもそもの話だ。彼が倒れたことからしておかしかった。あれだけプライドが高く厳しい男が、倒れるまで仕事を詰め込むなんて、今までの彼からは考えられないほどの失態であった。
(何があった……)
 国広がここにいる間に、彼の異変の原因がわかればいいのだが。あの態度からして彼の口を割らせるのは容易ではなかろう。となれば、国広自身で真実に辿り着く他方法はない。
「……昨日粥を作ったんだ。温めてくる」
「要らない。帰れよ」
「お前は、……俺に心配すらさせてくれないのか?」
 ぽつり、と迂闊に漏れ出た弱気な言葉が、静寂を揺らす。ややあって、はぁー、という深いため息が背中越しに聞こえた後、国広は気まずくなって身じろいだ。
「……わかった。だが食べ終わったら帰れ」
「帰らない」
 思ったより低い声が出た。
 それまで己の内の何かを堰き止めていた防波堤が、決壊したのを知覚する。元よりところどころひび割れていた理性という名のストッパーは、ついに限界を迎え綺麗さっぱり粉塵と化した。もう、どうにでもなれ。そんなやけっぱちな心境で、国広は呻くように剥き出しの心を長義へ差し出す。
「今だけでいい。頼むから、……傍に居させてくれ」
「……国広、お前――」
 長義の返事を聞くことなく、国広は寝室を出た。
 本音を曝け出した分、これ以上否定の言葉を耳にしたくなかったというのもある。だが一番の理由は、僅かに目を瞠って国広を射抜いた瑠璃の双眸が、僅かな熱を孕んだ瞬間を目の当たりにしてしまったから――要するに、逃げたのだ。二年前のあの日のように、また自分が何かを間違えて、あの瞳から熱が失われてしまうのではないか、と。怖じ気づいて尻尾を巻いて逃げ出した。
(……こんなことでは駄目だ)
 ガスコンロのつまみを回して、鍋に入れられた粥を温める。
 ぐつぐつと煮立つ鍋の中から、白い湯気が立ち上ってゆくのを、無言のまま眺め続けた。
「お前さ、俺のことをどう思ってるわけ?」
 温め直した粥を持って寝室へ戻った国広へ、長義が開口一番ぶつけてきた言葉である。静かにこちらを見つめる瞳には、既に先ほど見た熱の残滓は見当たらなかった。そのことに少しだけ安堵して、人知れず胸を撫で下ろす。
「どうって……好ましいとは思っているが……」
「言い方を変えようか。俺はお前にとっての何?」
「何、とは……?」
「親? 兄弟? それとも疎遠になった元同僚? お前の中の俺ってなに?」
「……、」
 そんなの決まっている。俺たちは血を分けた兄弟だ。そう答えれば良いだけなのに、どうしてか言葉に詰まって何も返せなかった。
 己にとっての山姥切長義という男は何なのだろう。二年前の自分なら迷わず兄と答えた筈だ。もっと幼い頃の自分なら、もしかすると刷り込まれた雛の如く純粋無垢な目をしながら、親と答えたかも知れない。しかし、今となってはそのどれもがしっくり来なくて、国広は長義の問いに答えあぐねた。実体のない影へ必死に手を伸ばしているかのような、途方も無いモノを相手にしている気にすらなってくる。
 一体どうしたというのだ、自分は。たった一言、返せばいいだけなのに。親、兄弟、元同僚。彼の掲示したそのすべての選択肢を、認めたくないだなんて。
「俺、は……」
「ふぅん」
 ――残酷な男。
 憎々しげに呟かれたその言葉を、拾う者はいない。唯一耳にする可能性のあった国広は、自分のことで手一杯だった。
「……いいよ、帰らなくても」
 先刻までの拒絶ぶりが嘘のように、長義が言う。
「後悔するほど、こき使ってやるから」
 ゾッとするほど凄艶な笑みを浮かべて、男の目が国広を捉えた。
 その時、国広は『捕まった』と思った。
 どくどくと脈打つ心臓を、無造作にわし掴みにされている。己の生殺与奪の権を他人に握られていることへの、本能的危機感。挙げ句ひっきりなしに鳴り響く警鐘が、国広の焦燥を煽る。されど恐怖は抱かず、代わりに湧き起こるは悦だった。
「ハハッ」
 正体不明の感情の数々に戸惑っていると、粥の最後の一口を飲み干した長義が突然笑い出す。
「なんて顔をしてるんだよ偽物くん。そら、ご自慢の綺麗なお顔が台無しじゃないか」
「……長義」
 上擦った声で、彼を呼んだ。す、と目を細めた美丈夫は、こちらを一瞥したきり何の返事も寄越さない。
(俺、は)
 おかしいのは、長義だけじゃない。
(……俺も、だ)

 からん。

 用済みとなったスプーンの皿にぶつかる金属音が、残響となりいつまでも耳の奥で響き続けた。


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