*Scandalous Love

TOUKEN RANBU
 第四話 幸福の形

 いよいよ本格的な夏に突入した。
 ジメジメと纏わりつくような梅雨が明け、照りつける太陽が肌を焼く眩い季節。テレビでは熱中症に気をつけろだとか、突然のゲリラ豪雨で一部地域の床下が浸水しただとか、似た内容のニュースが延々と繰り返されていた。確かに大事なことなのかもしれないが、流石にこうも同じ話題ばかりだと辟易してくる。
 本日五度目の浸水被害についての報道が流れた時、国広は堪らずチャンネルを変えた。
「おい」
 ゆったりと長い足を組み、ダイニングテーブルでコーヒーを嗜む美しい男が、新聞から目を離すことなく呼び掛けてくる。
「ん、」
 さっとペッパーミルを手渡せば、彼は無言でそれを受け取った。そして皿に盛られた目玉焼きへ塩胡椒を振り掛ける。生憎国広は醤油派なので、テーブルの上に常備されているペッパーミルは、実質長義専用と化していた。
「……」
「冷たいのでいいか?」
「ん」
「そら、麦茶だ」
「どうも」
 何度も思うが目玉焼きに塩胡椒だけなんて、よくそれだけで満足できるものだ。塩胡椒を掛けたなら、いっそケチャップも足してしまえば良いのに。ちょっとオシャレなカフェの朝食なんかで出てくるスクランブルエッグは、大抵が塩胡椒とケチャップで味付けされていた気がする。目玉焼きとは少し系統が違うのだけれど、あれも卵なのだから、同じ味付けでハズレるわけがない。
 なんてことをぼんやり考えながら、国広は醤油瓶を手に持った。
「お前、よく醤油なんかで目玉焼きを食えるね」
「俺が敢えて触れなかった話題を……」
「偽物くんのくせに妙な気を回すなんて十億光年早いよ」
 フン、と鼻を鳴らして長義が足を蹴ってきた。
 この男は雅な物腰の割に手と足が速いところがある。要するにあれだ、優雅に微笑みながら机の下で足を踏んでくるタイプ。しかも国広以外の者の前では、己を偽るだけの賢しさがあるのでタチが悪かった。
「アレは?」
「冷蔵庫の中」
「はぁ? なんで」
「もう夏だぞ。あんなところに置いていては普通に溶ける」
「冷房の効いたこの部屋で?」
「俺が買い出しに出掛ける間とか、冷房を切る時もあるだろ。お前だって基本的に家にいないし」
 昨日、長義が机の上に出しっぱなしにしていたチョコレートの箱を思い出す。既に開封済みの状態だったそれは、とりあえず冷蔵庫へ放り込んでおいたのだが、長義はそんな国広の気遣いがお気に召さなかったらしい。淡々と言葉を返しているうちに、むっつりと黙り込んでしまった。
「そもそもの話なんだけど」
 うんざりとした顔をした男が、唐突に切り出す。
「お前、なんでまだここにいるの」
 すっかりお決まりのやり取りとなったそれ。聞き慣れた応酬と感じるようになるくらいには、国広はそれなりの期間を長義の家で過ごしていた。
「もう一週間だ。俺も仕事に復帰しているし、お前のやることなんて何も無いんだよ、偽物くん」
「俺は偽物なんかじゃない。それに、小豆から『また長義が無理をしないように一ヶ月くらい見張っていて欲しい』と頼まれたから、あと三週間は帰る気はないぞ」
「……色々言いたいことはあるが、それよりいつの間に小豆と連絡先を交換したんだい」
「お前が倒れた日だな。……あぁ、あの人の使うスタンプが可愛くて、つい何個か買ってしまった」
 お前にもいくつか教えてやろうか。
 世間話のつもりでそう続けると、ブチッと何かが切れる音がした。
「長義?」
「お前さ、」
 青筋を立てた長義が、鬼のような形相で国広を睨みつけてくる。完全に目が据わっており、本気でキレていることが空気から伝わってきた。たら、と冷や汗がこめかみを伝う。これは、手に負えないかも知れない。今まで何度か怒りをぶつけられたことはあったけれど、ここまでのものは幼い頃に家の人間へキレた彼を見て以来だった。
「……そんなに俺を怒らせて楽しいか?」
 地獄の底を這うような低い声で、詰られる。全身の肌がぶわりと粟立った。目を離した一瞬の隙をついて、何をされるのかわからない。そんな不安定な状況に対する純粋な恐怖から、国広の身体は身動きを封じられてしまう。
 勿論、相手は長義だ。命を奪われることはないだろう。にもかかわらず男の放つ怒気が、彼が何をしてもおかしくないと思わせるだけの危うさを孕んでいて。さらにはその狂気の矛先が、すべて国広へ向けられているのを察しても尚、楽観的な考えのままでいられるほど能天気ではなかった。
「……な、にを」
「偶に、お前を酷く痛めつけてやりたくなることがある」
「……っ」
「ふ、……お前は知らないだろう? 当然だ。この俺が、ちゃんと隠してやっていたのだからね」
 つつ、と爪の先まで整った指先が、強張った左頬を淫らに擽る。そして惨めに震える獲物の姿を、二つの瑠璃玉が貪るような眼差しで凝視した。
「ん、……やめ、」
「もう、いいのかな」
 それは疑問系でありながらも、誰の答えも欲していない。
「……俺はもう、隠さなくても良いのだろうか」
「ちょう、ぎ……?」
 徐に、彼の右手が国広の顎を掴んだ。その後、美貌の顔が徐々に近づいてくる。何故か避けようとは思わなかった。寧ろ、呆気ないほどすんなりと受け入れようとしている自分がいて、そんな形容し難い感情の変化に戸惑っているうちに、唇へ柔らかいものが押し付けられていた。
「は、……っ?」
 間違いない。これは、長義の唇だ。
「んっ……ここ、開けろ」
「な、ん……っ」
「開けろって」
 舌でぐりぐりと唇を割り開かれ、咥内を蹂躙される。他人の唾液なんて気持ち悪い筈なのに、不思議と長義のそれは甘く感じた。乾いた土に滴り落ちた甘露の如く、国広の奥底で眠る飢餓感を刺激する。
「ふ……ッぁ、長義、……ン、」
「はぁ、……くにひろ」
 くちゅ、と時折鳴る水音がいやらしい。咥内を掻き回す舌に翻弄されて、息が苦しかった。その上、強制的に官能を引き摺り出される感覚が、理性的な思考を悉く奪い去ってゆく。
 腹が空いた。もっと、もっと欲しい。
 否、こんなことはおかしい。すぐに止めなければ。
 相反する心が悲鳴を上げて、今にも砕けてしまいそうだ。理性など、とっくに離散している。だというのに深くなればなるほどに痛くなるこの胸は、この行動が禁忌に触れるそれであると本能的に理解していた。
(だ、めだ……俺たちは、)
 ――兄弟なのに。
「お前が悪い」
 じんと脳髄が痺れて堪らない。生理的に溢れてくる涙が頬を伝って、それを優しく拭う長義の指先に、このまま縋ってしまいたかった。
「ぜんぶ、お前のせいだ」
 はぁ、はぁ。
 呼吸すら奪う激しいこの口づけが、何を意味しているのか。ここまでされてわからないほど、愚鈍なつもりはない。
 体格はほぼ同等、力だけでいえば僅かに国広の方が上といったところか。殴り飛ばして逃げ出すくらい、国広にとっては容易なことである筈なのに、現実はこうして長義の乱暴を許してしまっている。
「長義、」
 ここにきて、ようやく自覚した。今まで無意識のうちに見ないふりをしていたけれど、もう逃げることは許されない。
「こんな醜い心なんて何も知らずに、お前はただ笑っていれば良かったんだ」
 苦しげに上下する肩口へ、長義の額が押し付けられる。ぐりぐりと何度も擦り寄る彼の頭を、国広はそっと抱き込んだ。時折頬を掠める銀髪がくすぐったい。
「俺は、それだけで十分だった」
 煮え滾った劣情をそのままぶつけられて、腹の底から沸き起こるは歓喜と渇望。どうやら自分は、とっくに手遅れだったようだ。さらさらと流れる男の髪を静かに梳いてやりながら、国広は自嘲する。何が禁忌だ。何が倫理だ。そんなもの、あったところで何ら意味がない。だってもう自分は、覚悟してしまった。
 一線を踏み越える覚悟を。
「……それだけで、十分だったんだ」
「今はもう、これだけでは満足出来ない?」
 腕の中の頭がもぞもぞと動き出す。気怠げに向けられたその視線には、明らかな『飢え』が燻っていた。情欲に濡れた瞳はより鮮やかな青を映し、氷河の下に広がる海の如く冷たい色をしている。
 この一週間、誰よりも彼の傍にいて、気づいたことがある。彼の素っ気ない言葉の裏側には、いつだって相反する労りが満ちていたこと。冷たい色の瑠璃玉に、隠しきれぬ熱が宿っていたこと。冷たさと熱さは紙一重だ。無防備に触れて、反射的に手を離すまでのその一瞬で、それが冷たいのか熱いのか判断するのは難しい。火傷して初めて熱かったのだと理解するし、凍って初めて冷たかったのだと気づく。つまりは長い時間それに触れなければ知り得ぬことなのだ。
 彼に触れてようやくわかった。この痛みは熱さ故のものだったということを。その事実が、こんなにも喜ばしい。
「……もう一度」
 浮かれた声が出る。仕方ない。ようやく今までの不明瞭だった感情に、名前がついたのだから。
「もう一度、キスがしたい」
「……は?」
 ガバリと身を起こした男が、目を見開いて国広の顔を覗き込む。
「……お前、何を言ってるのかわかってるのか?」
「わかっている」
「いいや、わかってない。もう沢山だ。期待してガッカリさせられるのは。お前はただ、この空気に流されてるだけだ」
「違う……なぁ、長義」
 ちょん、と自ら唇を重ねてみる。淡い桜色に色づいたその場所は、思った通りしっとりとしていて柔らかかった。
「ん、……っ」
「な、お前……」
「好きだ」
 口を突いて出た言葉は、生まれて初めての告白だった。同時に潤んだ翡翠の瞳から、涙が一雫零れ落ちる。
 目の前の男は、驚愕の表情を晒したまま固まっていた。言葉も出ないくらいに動揺しているらしく、石のようにピクリとも動かない。そんな珍しい長義の姿が見られたことが嬉しくて、また調子に乗って何度か唇を啄んだ。ただ唇を合わせているだけだというのに、満ち足りた気持ちになるのが不思議でならない。
「ふっ……あぁ、好きだ、長義……んっ、んぅ!?」
「……クソッ!」
 そのうち口づけだけでは足りなくなってきて、このまま抱き締めてみたらどうなるのだろう、なんて思い始めた時だった。硬直から解かれた長義が、突然舌を突っ込んできた。
「あ、ぅ……っん、んんー!」
「それは、ふ……卑怯だろ……ッ」
「まっ……息、が」
 さっきまでのキスがお遊びに思えるほどの激しいキス。じゅぷじゅぷと交接を思わせる卑猥な音が部屋に響き、自ずと顔が火照り出す。一方、真っ赤な顔をした国広を見るや否や、にやりと嫌な笑みを浮かべた長義は、今度は両手で国広の耳を塞いでから深いキスを仕掛けてきた。
 じゅる、ぬぷ。
 耳を塞がれたせいで水音がより鮮明に聞こえる。恥ずかしくなって抗議の声を上げようにも、そんな余裕すら与えてもらえず、ただ男に翻弄され続ける他なかった。
「……はぁッ」
「……ふふ、かわいい」
「もっ……と、」
「……はぁ〜……勘弁しろ」
 お前は俺を殺す気なのかな? 
 ようやく解放されたのは、国広が涙やら鼻水やらで顔をぐちゃぐちゃに汚した後だった。酸欠でぼうっとした思考のまま長義を見つめていれば、彼は心底辛そうなため息を一つ零して、どうしてか頭を抱えてしまう。
「こんなことになるならローションを買っておけばよかった……」
「……? ローション?」
「……お前はそのままでいてくれ」
 自分が酷く汚れた大人になった気がする。なんてぶつぶつ呟いてから、長義は唐突に立ち上がった。そのまま部屋を出て行って暫くすると、ぬるま湯を張った洗面器とタオルを持って戻ってくる。
「はは、きったない顔」
 そう笑って国広の顔を拭う長義の手は、幼い頃の彼を彷彿とさせるような、どこまでも優しいもので。国広はうっとりと、その温かい掌に己の身を委ねるのだった。
「なぁ、国広」
「……ん、?」
「愛してる」
 耳元で囁かれた瞬間、ドキリと心臓が跳ね上がる。まるで発火したみたいに身体を熱くすれば、そんな国広の反応に満足したのだろう。してやったりと微笑んだ彼が、心底可笑しそうに笑い始めた。
「ははっ」
「ふ……っ」
 そんな彼に釣られて、国広もまた笑い出す。
「お前はほんと、可愛いね」
 数年ぶりに浮かべた長義の心からの笑顔は、やはり何度見ても変わらず美しいままだった。

 退屈な授業を終えて、まだ日が高いうちから帰路を急ぐ。
 久しぶりに出席したからか、わらわらと群がってきた有象無象が鬱陶しかった。芸能人として成功している方である長義のおこぼれを狙って近づいてきた同業者には、それとなく牽制してはみたのだけれど、ああいう奴らは如何せん学習能力が低いものだから扱いに困る。
「……夢、ではないんだよな」
 スマホのメッセージを確認して、長義はほうっと気の抜けた吐息を漏らす。何度見返しても、そこに表示されているのは『今日の晩飯は何が良い?』などという、新婚然りとしたやり取りで。長年の片想いを拗らせていたと自覚している分、浮き足立つ心を引き締めるのは、なかなか根気が要りそうだった。
(夢なら一生醒めなくて良い)
 今朝、寝ぼけ目を擦りながらも、玄関まで長義を見送ってくれた弟の姿を思い出す。国広はあの動画投稿以来、大学に顔を出すと騒ぎになるからという理由で、環境が整うまではリモート授業が主体になるとのことだった。なので彼は基本的に、長義の家で大人しく留守番することになっている。
 堀川家の方には、国広から事情を説明してあるそうだ。それでも心配なのか、時折堀川兄弟から電話が掛かってくるのが心底解せない。血の繋がりも何もない彼らと長義が、今まで直接顔を合わせたことは一度もなかった。しかし、あの隠し事が壊滅的に苦手な国広のこと。彼の様子を見ていれば、二人の関係が変化したのは一目瞭然というもので……そのせいなのか何なのか。長義は特に次男の方から、やたらと警戒されているような気がしてならなかった。
「いっそアレを白山学院へ編入させるか……」
 そもそも一般の大学は、芸能人の受け入れに慣れていない。セキュリティが甘いこともさることながら、芸能人の扱いに理解のある教育者や生徒が少ないのも事実であった。現に少し名前が売れただけで、国広の大学は通学が難しくなるレベルでの騒ぎになっている。さらにいえば、躾のなっていない女豹共が、分不相応にも国広を仕留めんと目をギラつかせている様子も、容易に想像出来て腹立たしかった。
 ならばやはり、長義の通う白山学院大へ編入するのが一番なのではないか。そんな気持ちが、ますます強くなる。
(……それに同じ大学に通うなら、それを理由にルームシェアに誘うことだって出来る)
 もし、これからもずっと、彼が長義の家に居てくれるのなら。終わりを意識して不安を覚えることもなくなる筈だ。
 朝起きれば彼が隣で眠っていて、夜は一つのベッドで身を寄せ合って眠る。そんな、今となっては懐かしい穏やかな生活は、あまりに甘美な夢物語のように思えて、少しだけ怖かった。あの日、一度手放したもののすべてを、再び取り戻すことが出来るだなんて。贅沢が過ぎて罰が当たってしまいそうだと思ったから。
(あれが首を縦に振ってくれれば、それですべて上手くいくのにな)
 既に何度かしてみた編入の提案は、残念ながら今のところ黒星が続いてしまっている。曰く、黒泉館には何人か友人がいるからだとか、堀川家にこれ以上迷惑は掛けられないだとか、彼なりに譲れない事情があるらしい。
「まぁ、今のところは許してやるか……『夜は焼き魚がいい』、と」
「なんだぁ? お前の弱ってるとこが見れるっつーから来てみたのに、随分と楽しそうじゃねぇか……にゃ?」
 長義がメッセージに返信していると、聞き慣れた声で背後から話しかけられた。
 無遠慮に呼び止められたというのに、長義が警戒心を抱くことはない。声の主が誰かというのは、最後の語尾で丸わかりだったからである。あんな特徴的な話し方をする奴なんて、長義が知る中では一人しかいなかった。
「おや、驚いたな。まさかこの時期に猫殺しくんと会うなんて」

《Back Street Music》

 ファンたちからの呼び名は通称・バックス。
 今年の七月上旬に行われたエマージェンザ・ジャパンの覇者である彼らは、来週行われる世界決勝戦への出場が決まっており、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで猛進を続けている超実力派バンドである。世論を恐れぬストレートな歌詞で、観客の心へ殴り込みにいくそのスタイルは、特に若者世代の間で話題になり、今や子どもから大人まで知らぬ者はいない、と言わしめるほどの人気ぶりだった。
「来週は大会だろう? 練習はいいのかい」
「毎日三途の川を拝むくらい、お頭たちから扱かれまくってんよ。だから今日はレポートを出しに来ただけ、にゃ」
 鞄から分厚い封筒取り出して、男――南泉一文字がそれをひらひらと振って見せる。文武両道を校訓にしている厳格な我が校の前では、かの多忙を極める有名バンドのベーシストも、特別扱いは認められなかったようだ。
「へぇー、まぁ頑張りなよ。悪運の強い君たちのことだから、そう無様な結果にはならないだろうけど」
「……お前が素直とか明日は槍でも降るのか? ……にゃ」
 失礼な。長義とて、何の裏もなく賞賛の言葉を贈ることはある。
 そう言い返してやりたいのは山々だったが、下手に感情的になると余計なことまで詮索されかねないのでやめておいた。国広とようやく和解したことや、彼と身も心も(身体の方は未遂だが)結ばれたことは、二人の間だけの『特別』な秘め事である。たとえ十年来の悪友といえども、国広に関する『特別』の一欠片でも譲ってやる気は毛頭なかった。
「俺はいつでも猫殺しくんの実力を評価しているよ」
「ゲェッ、胡散くさ……」
「それよりいいのかい? 人間環境学の提出期限は今日の十四時だったと思うけど」
「うわっ! やべぇ、ギリギリの時間だにゃあ!」
 じゃあな! 
 そう右手を挙げて慌ただしく去って行く南泉は、いつ顔を合わせても騒がしい男であった。あれで勘の良い奴なので、ある程度探りを入れられることも想定していたのだけれど、杞憂になって何よりである。
「……帰るか」
 それから、電車に揺られること数十分。
 最寄り駅の改札を出た辺りで、何処からかカレーの匂いが漂ってきた。スパイシーな香りに食欲をそそられつつ、明日の晩飯はカレーでもいいな、なんてどうでもいいことを考える。そこで、ふ、と前よりも己の視野が広がっていることに気がついた。
 あの頃は国広への想いを抑えるのに必死であったから、今のように周りの些細な変化にまで意識を傾ける余裕が無かったのだ。
(……七年……いや自覚していなかった時の分も含めると、もっとか)
 ずっと、ずっと苦しかった。
 忘れもしない、十三歳の夏のこと。国広へ劣情を伴う意味での執着を向けているのだと自覚して、目の前が真っ暗になったあの朝。彼の痴態を夢に見て、罪悪感と共に目を覚ますと、長義は精通を迎えていた。
 下半身に残る若干の気怠さと、鼻につく独特の青臭さ。下着の中が異様にベタついていて、何事かと恐る恐る手を伸ばせば、欲望の証がべったりと己の掌を汚した。そして、混乱したまま中を覗き込み――吐きそうなほどに自己嫌悪したのを、昨日のことのように覚えている。
 そこから先のことは思い出したくない。
 段々彼とどう接したらいいのかわからなくなって、物理的に距離を置いた。常に人目を気にしては、異常な恋情に身を焦がす己へ深く失望した。いつか、純粋なあの子を己の欲が穢してしまうのではないかと恐怖に怯えて、指先一つでさえ触れることを躊躇った。後は延々とその繰り返しだ。想うことすら許されず、触れたいのに触れられない。毎日汚泥を啜るような心地で生きていた。

 国広のいなくなった後の世界は、まるで星の無い夜空のようだった。

 もう一度、最後に一度だけでいい。彼と会いたい、彼に触れたい。そんな次から次へと沸いて出てくる欲求から、意識を逸らすために、仕事を無理矢理詰め込んでゆく日々。挙げ句、周囲に散々心配を掛けて、あんな醜態を晒してしまった。
 だから、国広がすっ飛んで来たのだという、長義が倒れたあの日は、本気で長義の心と身体は限界だったのだ。いつ気が触れるかわからないような、そんな不安定な精神状態。ともすれば『引退』の二文字が頭にチラつき始めた、弱りきった意識の底で、長義は――、
『今だけでいい。頼むから、……傍に居させてくれ』
 救われない希望を見出してしまった。
 あんな顔で、あんな目で、あんなことを言われて、正気を保てるわけがない。少しくらい、期待してもいいじゃないか。だって自分は、今まで散々苦しめられたのだから。そんなどこまでも身勝手で邪な心が、一息に理性を押しのけた瞬間を、長義は明確に察知した。
 長義は己が如何に浅ましく、卑しい男なのかを知っている。
 だから、国広があの迂闊な言葉を吐いた時に、すぐさま腹を決めた。嫌われてもいい。何だって良いから、最後に彼へこの長年積もり積もった情念のすべてをぶつけてやろう、一矢報いてやろう、と。
(いっそ嫌われてしまえばいいと思ったんだ。だからあいつにキスをして……でも受け入れられた)
 小豆に言われたから長義の面倒を見ているのだと言われた時は、怒りでついに気が狂うかと思ったが。そうして暴走した結果、国広が自分の手を取ってくれたのなら、そこはまぁ大目に見てやってもいいかと思う。
「ただいま」
 玄関扉を開く。扉を閉めた後、ウィーン、という機械的な音が鳴って、最後に施錠の音が響いた。ややあってリビングのドアの向こうから、バタバタと忙しない足音が聞こえてくる。
「おかえり、長義」
 僅かに視界が揺らいだ。靴紐を解く振りをして顔を俯け、何気なさを装いつつ鼻を啜る。若干無理をしたせいで、鼻っ柱がじんじんと痛んだ。
「夕餉は出来ているぞ。風呂も沸かしてある」
「……新妻みたいなことを言うね。誘ってるの?」
「んなわけないだろ」
 綺麗な顔をして実は粗野なタチである国広は、げしげしと遠慮無く長義の尻を蹴ってくる。
「はー、俺の奥さんはツレないなぁ」
「あんまりふざけたことを言っていると、お前の味噌汁に大量の一味を入れてやるからな」
「……国広、」
 ちゅっ。
 こちらを振り返った彼へ、触れるだけの口づけを落とす。
「なっ、どうした?」
 戸惑う国広を他所に、長義は目の前の身体を掻き抱いた。白いうなじへ顔を埋めて、今度はより強く、滑らかな肌に吸いついてみる。
「ん、……今夜、いいか?」
 新雪を思わせる白いキャンバスに、真っ赤な花が咲いた。
 醜悪で、歪な、これは俺のモノだと強欲に主張する、独占欲の塊のような花が。
「最後まで、シたい」
 綺麗に咲いたその花を何度か啄み、彼を抱き締める腕に力を籠める。もう二度と離さない。たとえ死んでも離してなどやるものか。ようやく手に入れたのだ。一度知ったこの温もりを、匂いを、感触を、忘れることなんて絶対に出来やしない。
 神にだって背く覚悟を決めた。
 これが禁忌だというのなら、好きなだけ罰を与えればいい。
「……わかった」
 どちらからともなく唇を重ね合わせた。すぐに深くなるキスに夢中になって、獣のように貪り合う。肉を食んで、骨までしゃぶって、隅々まで舌を這わせて、余すことなく奪い尽くしてやりたい。そんな暴力的な衝動が本能を支配して、長義はほぼ無意識に己の昂りを国広の太腿へと擦り付けた。
「……っ」
 熱に浮かされた頭はすっかり馬鹿になっている。今更止まることなど、到底出来そうにない。
「ぅわ、」
 力の加減は出来なかった。ガッと勢い良く国広の腕をわし掴み、長義は暗い廊下を歩き出す。向かうべくは二人の寝室。今宵はそこで、二人だけの世界に浸る。
 暗がりに浮かび上がる純白のシーツは、真夜中に佇む湖畔の如く穏やかな顔を見せる一方、人を誘き寄せる蠱惑的な怪しさを秘めていた。二人はまるで魅入られた亡者のように、息を乱しながら寝台へと近づいていく。一歩、また一歩と距離が近づくに連れて、身体が熱を上げていくのを、他人事のように感じるのが何だかおかしかった。
 あぁ、先ほどから、逸る鼓動の音が煩い。
「は、ッ……ぁ、」
「ん……っ」
 二人分の影が、一つになる。
 誰の気配もないこの世界の片隅で、二人。息を潜めるようにして繋がり合った。

 何度も、何度も、一人では抱えきれない背徳の重さを、二人で分かち合うように。
 姿の見えない何者かが向けてくる侮蔑の眼差しから、その身を隠すように。

 *

 堕落してしまいそうだ、というのが長義に抱かれて一番に思ったことだった。
「あッ……、」
 一糸纏わぬ姿となり、二人は寝台の上で絡み合っている。
 控え目に存在を主張する胸の飾りを、丹念に舌の上で転がされては堪らなかった。真っ赤に熟れたそこを弄られる度に、下半身に熱が溜まってゆく。国広としては、早く身の内に燻る熱を発散したくて仕方なかったのだが。肝心の長義がそれを許してくれないものだから、焦らされるばかりであった。
(も……げんか、い)
 もうそろそろ良いのではないか。熱に浮かされる頭で考える。これ以上煽られ続けるのは色々キツい。一度、溜まったものをすべて吐き出して、それから今度は国広が長義へ奉仕してやれば、あるいは――、
 ガリッ。
 気がそぞろになっていたのだろう。国広の意識が自分から逸れていると気づいた長義が、思い切り胸に噛み付いてきた。
「んぅ!」
 ぷっくりと膨らむ真っ赤な果実は、そこだけ見ればまるで女の秘豆のようだ。ただでさえ敏感になっているそこへ、加減もなしに歯を立てられてはひとたまりもない。
「こんな時に考え事とは、随分と余裕じゃないか」
「ん、ふ……っあ、ちがッ」
「駄目だろう? 俺のことだけを考えなければ。余所見なんて許さない……」
 身体を拓かれている。
 そんな状況の中で、国広に出来ることはあまりに少なかった。
「……っは、まだ二本目か」
 ぐちゅぐちゅ、という卑猥な水音が、己の下半身から聞こえてくる。長い時間慣らされただけあって、一本目の時よりもだいぶ痛みは薄れていた。
 たっぷりと塗りつけられたローションによって泥濘んだ肉壁が、長義の骨張った指を貪欲に咀嚼する。そして、どうやら長義は嬉々として指を頬張る秘孔を観察するのが、相当お気に召したようで。いくら国広が嫌だと言っても、彼は着々と自分を受け入れる準備をする卑猥な穴へ、恍惚とした眼差しを送るのをやめようとはしなかった。
「お前も見れたらいいのにね。俺の指を飲み込む、健気で可愛い下のお口を」
 くぷり。
 わざとらしく音を鳴らして、長義が穴の中を掻き回す。
「あぁ、とても……いやらしい」
「……っ」
 咄嗟に足を閉じようとした国広の動きを鋭敏に察知した彼は、自身の全体重でもってして、組み敷いた身体を抑えつけた。すると、却ってさっきよりも大きく足を広げた格好となってしまって、国広は半ば恐慌状態のまま悲鳴を上げる。
「やめろ、……いやだ、長義ッ!」
「だーめ、やめない。そう恥ずかしがらなくても、とてもそそられるよ、国広。おかげでほら、俺もこんなになってる」
 ぐりぐりと硬いモノをあらぬ場所へ押し付けられて、カァッと顔が熱くなる。それは長義の昂りだった。余程興奮しているのか、とても人の身体とは思えぬほどに熱く、硬くなっている。
 アレを己のナカヘ突き入れられたなら、一体どうなってしまうのだろう。そもそもあの大きさのものが本当に入るのか。期待と不安、そして恐怖が、腹の底でぐるぐると蜷局を巻く。これは一度、彼に待ってもらった方が良いのではないか。ついに、そんな弱気な考えが胸中に広がり始めた時、国広の躊躇を一蹴するように、長義が淡々と宣った。
「……三本目、挿れるぞ」
 言った傍から、穴の縁がミチミチと広げられてゆく。少し呼吸が辛くなって、悩ましげな吐息を漏れた。すると間もなくして「痛むか?」と、労る声で長義に問われる。それに慌てて頭を振れば、「無理はするな」と余裕なさげに返された。
「国広、こっちを向け」
「っ……? ん、」
 噛み付くようにキスをされ、躾けられた身体が従順に己の唇を割り開く。一方、すかさず口内へ入り込んで来た長義のそれは、その奉仕を当然とばかりに受け止めて、中で縮こまっていた熱い媚肉を、そのまま絡め取っていってしまった。
「んぅ、う……は、ぁ」
 怒涛の勢いで口内を犯される。的確に国広の感じるところを責め立てられて、頭をぐしゃりと掻き乱された。幼い頃にはよくしてくれていた、その懐かしい戯れ。不意に思い出されたセピア色の記憶に、国広は無意識のうちにふわりと顔を綻ばせた。
「はっ……、かわいい」
 白い歯の羅列をなぞられ、上顎を舌先で擽られれば、知らず甘い嬌声が上がる。互いの吐息すら奪い合って、一心不乱に情を交わした。ぐずぐずに思考が蕩けてしまえば、先ほどまで抱いていた不安も、恐怖も、すべて溶けて消えてしまう。
 今の自分に、怖いものなど何もなかった。長義がいれば、それだけで心が満たされる。彼以外何も目に入らない。正常な判断なんて、とっくに出来なくなっていた。だから、国広は気づけなかった。
「……っ!?」
 ナカへ埋められた長義の指が、虎視眈々と機会を狙っていたことに。
「……っようやく、かな」
 目敏く国広の変化に気づいた長義が、嬉しげに呟く。ニンマリと猫のように笑った男を見た瞬間、嫌な予感が胸を過った。
「ァア!?」
 ゴリッ。
 内側の一点を思い切り押し潰される。直後、脳天を貫く強烈な快感が身体中を駆け巡り、ビクビクと腰が飛び跳ねた。
「ま、ちょうぎ、……ッダメ、だ、それ……っ! ダメ、ぁ!」
 宙を蹴った爪先が、衝撃に耐えるようにきゅっと丸められる。突然のことで己の身に何が起きたのかわからない。身体の震えが止まらなくて、ずっと頭の中に星が散っていた。自分の身体なのに、まったく制御が利かない。しかし状況を理解しようにも、考える暇も与えぬほど長義が責めの手を緩めようとしないのだから、どうしようもなかった。
「ぁ、ア、やめ、ダメ、待って!」
「やっとここで感じられるようになったな」
 おめでとう、国広。
 実に良い笑顔で言われたのは、国広の変化を喜ぶ言ノ葉。されどそのすぐ後にもたらされたのは、死刑宣告に等しいそれだった。
「もう少し頑張れるよね?」
「へ、ぁ……無理、だ……ッ」
 ひくり。頬が引き攣る。これ以上あんなことをされたら死んでしまう。せっかく結ばれた想い人との初夜で、腹上死なんて冗談じゃなかった。
「無理じゃないだろう。お前は我慢強い男だ。俺はお前なら大丈夫だって信じてる」
「だが、もうほんとに……」
「くにひろ」
「や、」
 強烈な尿意を感じて、まずい、と思ったのは一瞬のこと。そして、そんな国広の事情など一切顧みずに、長義はまたあの場所をゴリゴリと突き上げてきた。
「あぁぁあああ!」
 プシュッ!
 はち切れそうになっていた膀胱が、一気に限界を突破する。とてつもない快感と共に、ぷしゅ、ぷしゅ、と小刻みに放尿する感覚が止まらなくなった。これは駄目だ。気持ち良すぎて頭が馬鹿になる。しかし、止めどなく押し寄せてくる快楽をやり過ごそうにも、未だガクガクと痙攣する腰は、まったく力が入らなくて。ならばせめて、顔だけは隠そうと手に力を籠めれば、下半身だけに飽き足らず手指の一本すら脱力しており、使い物にならなかった。
「ぁう、なん……で……っ?」
 ついに、身体がおかしくなってしまったようだ。壊れた蛇口の如く、だらだらと体液を溢し続ける分身の存在が、より一層国広の危機感を煽る。
「は、……っはぁ……ひ、く……ぅ」
 何だというのだ、一体。俺が何をした。初めて長義と身体を合わせることになったその日に、よもや漏らしてしまうだなんて。長義も長義だ。あれだけ嫌だと言ったのに、あんな無理矢理……。
「ああ、泣いちゃった」
 ――可愛い、国広。
 耳元で囁く男の声が、いやに嬉しそうなのが気に障る。国広ばかりがこんなに醜態を晒して、目の前の男が自分一人だけ余裕そうな顔をしているのが、心底腹立たしくて仕方なかった。
「おれ……もら、し……っ」
「あぁ、粗相をしたと思ったのかい? これは違うよ。ほら、色も匂いも違うだろう?」
 ぴちゃり。
 腹の上に溜まった体液を、長義が掬い取る。匂いを嗅がせようとしたのだろう。鼻先までその手を近づけられて、思わず国広は顔を背けた。だが長義は、そんな国広の反応に特に気を悪くした様子は見せず、寧ろクスクスと楽しげに笑ってみせる。
「これはね、『潮』という」
「しお……?」
「そう。気持ちイイと出るものなんだ。だからこれは、国広がすごく感じた証なんだよ」
 俺の手で感じてくれて嬉しい。さっきのお前はとても可愛かった。でも、もっと乱れるお前を見たい。
 目を爛々とギラつかせて饒舌に語り続ける男は、嘗てないほど興奮しきっている。そのためか、普段なら絶対に口にしないような素直な言葉を、これでもかと国広へ並べ立ててきた。何だかそんな浮かれた男の姿を見ていると、あれだけぐらぐらと煮立っていた感情が、嘘のように鎮火していく。
(まったく……)
 救いようのないくらいに不器用な男だ。こんな時でなければ碌に本音を話せないだなんて。だが、そんな彼を愛してしまった時点で、国広はもう手遅れなのだ。後戻りの出来ないところまで来てしまった以上、この男のこんなどうしようもない部分も、全部纏めて受け止めるしかないのだろう。
 そうこうしているうちに、彼に対する怒りはなくなっていた。代わりに溢れてきたのは、呆れ混じりの直向きな愛しさ。ただ、それだけだった。
「ちょうぎ、」
「ん?」
「お前が、欲しい」
 散々喘いだせいで、掠れた声が出る。もし明日が公演日なら、長義に懇々と説教される事案だな。ふ、とそう思った。とはいえ今回の原因は他ならぬ長義本人なので、彼に文句を言う資格はないのだが。
「……くに、ひろ」
「焦らさないでくれ……もういいから、早く――」
 ずるり、とナカへ入れられていた指が抜き出された。十分に解された入り口がヒクヒクと震えて、突然の喪失に寂しさを訴える。
「……少し待っていろ」
 そう言って、長義は寝台の横に置かれたサイドテーブルへと手を伸ばした。明かりのない部屋は薄暗い。こちらを見下ろす男の顔は見えないが、恐らく国広と同じ飢えた獣のような目をしているのだろう。
 ピリッという開封音がいやに部屋へ響いて、国広の緊張が最高潮となった。
「本当に、いいんだな?」
 これが最後通牒。覚悟はあるのかと、そう問われた気がした。国広は、もう何もわからぬ無垢な子どもではない。その言葉の意味を正しく理解している。
 彼と身体を繋げれば、自分は身も心もすべて彼のものとなる。そのまた逆も然りだ。つまり、この一線を越えてしまえば、二人はもう二度と元には戻れない。消せない十字架を背負いながら、その生涯にわたり後ろめたさを抱えて生きてゆくこととなる。
 だが返事など、最初から決まっていた。
「抱いてくれ、長義」
「……ッ、」
 丁寧に解された後孔は、難なく長義の男根を受け入れた。
 一番太いカリ首さえ抜けてしまえば、それ以降は特に支えることもなく。指では届かなかったところをめりめりと押し広げながら、ソレは奥へ奥へと進んで来る。
「ンッ……、はぁ、はっ」
「ぐ、ぅ……締め過ぎ」
「ぁ……わる、い」
「ったく、仕方ないな」
 腹が苦しい。指とは比べ物にならない質量に、上手く息が吸えなかった。今までどうやって呼吸をしていたのかわからなくなる。内臓を押し上げていく感覚が妙に生々しくて、ついナカにいる長義を締め付けてしまえば、苦しげに唸った男がそっと国広の萎えかかっていた分身へ触れてきた。
「ぁ、あ」
 途端に、国広の声に喜色が混じり出す。腸壁を割り入ってくる動きが止まり、ひたすら国広を悦ばせるための愛撫が始まった。
「ふぁ、ん……んぅ」 
「は……ッ、くにひろ」
 舌を絡ませ、深い口づけを交わす。同時にぬるついた掌で竿を扱かれ、先端を優しく撫でられると、腰から下が溶けそうになるくらいに気持ち良かった。
「んぁッ、それ、……あっ、きもち、い……」
「く、……あまり煽るなッ」
「ふ、ぅ……ん、ぁあ、」
 長義、長義。
 夢見心地で何度も男の名前を呼ぶ。その度に己の中に埋まった肉棒が、ピクピクと律儀に反応を示して可愛らしかった。また、意識が逸れたことで身体の力が抜けたのか。ズ、ズ、と奥を犯す動きが再開される。
 ポタ、ポタ。
 国広の頬へ、己に覆い被さる男の汗が滴り落ちてきた。同じ性だからこそわかる。本当は、このまま一気に突き入れてしまいたいだろうに。その衝動を必死に耐えているのであろう男へ、愛しさが降り積もる。彼を想う気持ちに際限はなかった。ここが限界だと線を引いても、いつだってそんな事情を無視した心は、軽々とその一線を飛び超えてしまう。
 長義は、国広が自覚するずっと前から、こんな途方もなく大きな感情と向かい合っていたのだろうか。誰にも相談することもせず、一人孤独に戦っていたのだろうか。
(あぁ、また)
 彼へ捧げた愛が、膨らんでゆく。
「……っ奥、まで……ぜんぶ入ったよ」
「ぁ……、?」
「……やっとだ……ようやく……ッずっと、こうしたかった」
 感極まった長義が、疲労困憊といった風な肢体の上へ、ゆっくりと倒れ込んでくる。薄く上下する胸元へ頬を擦り付け、心臓の上に耳を押し当てるその行為は、幼な子が頻りに母の存在を確かめているような、そんな健気さを思わせた。
(好きだな……)
 頭のてっぺんから足の先まで多幸感に浸って、意識が朦朧とする。気づいた時には、まともに力の入らない腕を叱咤し、衝動的に汗ばんだ彼の頭を抱き締めていた。
「……国広」
「ふ、なんだ?」
「くにひろ、」
「……うん。長義、」
 動いていいぞ。
 ――バチュンッ!
「っ! か、ハッ」
 まだ言い終わらぬうちから大きく腰をグラインドさせて、最奥を突かれる。
「ぁッ、ま、て、……っはげ、し……!」
「無理だ……ッ腰、止まらな……っ」
「ん、ァア、あ、ぅあ!」
 腰を引かれた時に、丁度イイところへカリ首が引っ掛かり、またあの強烈な尿意が襲ってきた。止まって欲しくても、ガツガツと自分の上で腰を振る男もまた限界が近そうで、とても国広の制止を聞いてくれる雰囲気ではない。
「ぁッ、ん、んん、はぁ……っちょ、うぎっ」
「……っ、ぐ……イきそ……ッ」
「ヒ、ぁ、ダメ、だ……ァ、俺も、もう……ッァァァア!」
 ゴリゴリと硬いしこりを押し潰され悶絶した。プシャアッと派手な水音を立てて、潮を噴き上げる。どうやらかなりの量が出たらしく、今度は腹どころか胸あたりまでびしゃびしゃになってしまった。
 絶頂の衝撃でナカは大きく収縮し、しとどに濡れた肉壁が突き込まれた男の精を絞り取ろうと、淫猥にうねっている。一方、国広がイッている最中にもかかわらず、長義は激しく振りたくる腰の動きを止めようとしなかった。それは、国広をイかせるための動きというよりも、長義自身が快楽を追うための動きで。いくら国広が悲鳴じみた嬌声を上げようとも、彼はそれをすべて無視して己の欲望を打ちつけ続けた。
「……ぐ、ッ!」
 長義が果てたのは、国広の意識が何度か飛んだ後のこと。白いモヤがかかったように、意識が希薄になっていた時だった。突然ぶるりと腰を震わせた彼は、ついにコンドーム越しに国広のナカへ吐精した。
「う、……ッは、ぁ……はぁ、」
 とろんと熱に蕩けた瑠璃玉に、国広の痴態が映り込む。彼は満足げな吐息を漏らした後、乱れた息を整えながら小さく呟いた。
「……最高、だった」
「……っはぁ……は……」
 互いに息絶え絶えといった体なのに、引き寄せられるように顔を近づけ、口づける。それは決して、官能を掻き立てるような深いそれではなかった。ただ触れるだけの子ども騙しなバードキス。だが、今この瞬間交わしたキスは、今までで一番特別なもののように思えた。
「国広、」
 どさり。疲労のせいで脱力しきっている国広の隣に、長義が倒れ込む。
「愛してる」
 白い胸元へ額を擦り付けられながらの告白では、残念ながら彼の顔を見ることは叶わなかった。しかし、銀髪の隙間から覗くその耳が、鮮やかな薔薇色に染まっていたから、彼がどんな顔をしていたのかは想像に難くなかった。
「……ふは、」
 可笑しくなって笑い出せば、拗ねたように唇を突き出した長義が、横目で睨みつけてくる。
「……俺も、愛してる」
「……ん」
 それからすぐに睡魔に負けてしまって、二人一緒に眠りに落ちた。
 身体もシーツも色んな体液に塗れてベタベタしていたし、すぐに風呂に入りたい気持ちは勿論あったのだけれど、散々酷使されたこの身体でまともに動ける筈もなく。しかし、国広より幾分か状態はマシであろう長義でさえ、「もう無理」と匙を投げた始末であったのだ。今の無力な国広には、どうすることも出来なかった。

 朝起きたら、何をしよう。

 長義の好きな珈琲を淹れて、疲れた後は糖分を求めがちな彼のために、甘めのフレンチトーストでも焼いてやろうか。そんなことを夢現に考えていた国広は、まさか翌朝になっても腰に力が入らず、朝食を作るどころか一日中ベッドの上の住人と化す未来が待っているなどと、思いもしていなかった。


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