*Violent Love

 Prologue

 一本道が逸れただけで、格段に治安の悪くなる無法地帯がある。
 遊びたい盛りの学生から街を徘徊するホームレスまで。様々な人でごった返す繁華街はしかし、その裏側で日々幾人もの人が消されていることを、平穏にどっぷり浸かり切った大多数の人間は、気づいていないに違いない。仮に気づいたとしても、そんな可哀想な目撃者はすぐに『いなくなって』しまう。
 ルールなどあって無いような理不尽な暴力と欲望が闊歩する、混沌としたアンダーグラウンド。それが、山姥切長義の生きる世界だった。
「すみません、来週、来週にはちゃんと払いますから……!」
 ガタンッ! 
 椅子を蹴り飛ばした激しい衝突音が、工事途中の事務所に重々しく響き渡る。カビ臭くて汚らしいコンクリ壁に、大きな穴が開いた。
「瀬名」
「……っす。すんません、兄貴」
 指示には無い野蛮な動きをした部下は視線で黙らせて、長義は眼前で縮こまる男を冷たく見下ろす。
「もう返済期限は二ヶ月も過ぎているのだけれど……これ以上俺たちに待てと言うつもりか?」
「ひっ……! いや、その、か、金なら……! 金ならちゃんとアテがあるので……! 必ず、必ず来週までに用意し――」
「それは君の大親友である久木傑のことかな?」
 ペラッと乾いた音と共に掲げられたのは、数枚の紙切れ。《破産手続き開始及び免責申立書》《資産目録》《陳述書》などと記載されたそれらは、今朝部下から受け取ったばかりの書きたてほやほやだ。この男の連帯保証人になったばかりに道を踏み外した、愚かなほど友人思いの久木傑の末路が、赤裸々にこの書類には記されている。
「あぁ、可哀想に。彼なら自己破産して今頃はとっくに海の向こうだ。あの状態では君に金を貸すなんて、天地がひっくり返っても無理だろうね」
 何せ五体満足で人の形をしているかすら怪しいのだから。とまでは、わざわざ言ってやらない。どうせ例に漏れずこの男も辿る道だ。己の行末に恐怖して、今更無意味に抵抗などされても面倒である。長義はとことん合理主義な男であった。
「そん、な……っ」
「さて、残念だが『アテ』とやらは無くなってしまったようだ。うちもこれ以上の滞納は上が許してくれそうになくてね。踏み倒した分は君の身体で払ってもらうとしよう……連れて行け」
「はいっ!」
「い、いやだ! やめろ! 来るな……っ来るなァァア!」
 すぅ、と細められた瑠璃の瞳が、部下に引きずられて出て行く男へ、冷え切った眼差しを送る。これでもう何度目になるか。親友、恋人、家族、挙げ句は血を分けた自分の子ども……それまで大切にしていた存在をあっさり裏切って、自分だけ助かろうと逃げ出した恥知らずどもの処理は。「血も涙もない鬼畜め」「絶対に許さない」「殺してやる」エトセトラ。見飽きるほど同じパターンを繰り返したし、同じ捨てセリフを投げつけられた。くだらない。同情なんてしない。
 彼らのチープな愛憎劇を鑑賞していると、やはり《人間の感情ほど信用ならないものはない》と痛感する。
「……金と権力だけは、俺を裏切らない」
 昔から変わらない持論だ。この日に陰る世界では力こそがすべて。誰になんと言われようと、この考えばかりは変えるつもりはない。
 懐からジッポを取り出す。愛用のマルボロを咥え、火を点けた。重いタールが血管の隅々まで行き渡るようで、ほうっと気の抜けた息を吐く。思えば最近妙に忙しなかった。気づかぬうちに疲労が溜まっていたのだろう。なんだかどっと身体が重くなってきて、無性に煙草が美味く感じる。もう一本吸ってやろうか、なんて考えていたところで、建て付けの悪いドアが開かれた。
「お待たせしやした。いつでも車の用意は出来てます」
 もくもくと立ち昇る白煙がシミだらけの天井へ吸い込まれてゆき、次第にヤニ臭くなっていくのをただただ眺める。土塗れのカーペットの上に、用済みの吸い殻を投げ捨てた。ぐしゃり。胸の内に溜まった澱みを発散するように、執拗に踏み潰す。焦げ臭い匂いが鼻腔を劈いた。
「あの男の様子は」
「思いきり暴れやがったので大人しくさせてます」
「へぇ……傷はつけるなよ。価値が下がるからね。人皮は一定数の需要がある」
「はい」
「じゃあ、行こうか」
 長義がドアの方へ歩いて行くと、後ろから部下がついてくる。廃墟に等しい事務所の前には、スモークガラスの嵌められた黒塗りのベンツが停められていた。あからさまなのは嫌だから、もっと一般的な車を寄越せと言っているにも関わらず、それではメンツが……だのと御託を並べられて結局今に至る。指摘が五度目を超えたあたりで、長義は文句をつけるのをやめた。
「出せ」
 地面を舐めるように、車が滑らかに動き出す。移り変わる景色が、ネズミがそこら中を這い回る汚らしい路地裏から、ネオンのギラつく繁華街へと姿を変えた頃。助手席に乗った部下が、明日の天気でも話すかの如く、あっけらかんと言った。
「そういや、ちぃっと小耳に挟んだんですが。小田原の堀川会の代替わり、やっぱり長男の山伏国広が継承するらしくて。来週末に跡目継承盃を執り行うとか」
 跡目継承盃とは、組長が代替わりする時に交わす盃のことだ。大々的に後継の存在をお披露目する、組にとって重要な儀式である。
「なるほど、騒がしくなりそうだ」
「へい……幹島たちのこともありますし、何事もなけりゃいいんですが」
 幹島。長義が贔屓にしていた情報屋のうちの一人。現在行方不明となり、その足跡を追っている最中である。この半年足らずで、長義と関わった情報屋が三人も行方を晦ませていた。ここまで探っても何も掴めないとなると、恐らくは……。
「奴らにはそこまで重要な情報を与えていたわけじゃない。仮に何か漏れたとしても、逃げた債務者の行方だの、ケツ持ちしてる店の女たちの動向だの、どうでもいい内容ばかりだ。支障は無いさ」
「でもシノギは減っちまったじゃないすか。兄貴は今大事な時期だってのに……見つけたらタダじゃおかねぇ」
 無意識のうちに右手が胸ポケットあたりを彷徨う。ヤニ切れだ。それに気づいた部下が「兄貴、もくですか?」と声を掛けてくる。そこでようやく長義は、己の手が煙草を探していることを自覚した。これは思ったより参っているらしい。自覚すればするほど大きくなる苛立ちに任せ、取り出した煙草のフィルターを噛み潰す。さっと助手席から火を差し出され、無言のまま顔を近づけた。
「そういや、兄貴は知ってますかい? ブランカに、新顔が来るようになったの」
「新顔?」
 ふぅ。白煙を吐き出しながら問う。ケツ持ちしている店に新しいカモ、いや新顔が現れたとなれば、気になるのは当たり前のことだった。情報は金になる。何事も知っておいて損はない。
「店の女たちが浮き足立ってやがる。とんでもない色男のようで、何人か本気で入れ込んじまってるらしいんですわ。このまんまじゃまた逃げる女も出てきそうだが、金払いがいいから来るなとも言えねぇって、オーナーが頭抱えてやした」
「へぇ?」
 前言撤回。
 カモどころか営業妨害してくる害虫だった。駆除が面倒だ。話のわかるやつならいいんだが。
「瀬名、その客の対処はお前に任せ――」
「いや兄貴、実はその客についての話はまだ続きがありまして」
「……?」
 空気が凍る。くだらない話ならエンコを詰めさせるぞ。そんな言外の圧力がかかる空気の中、長年己に仕えてきた部下の顔がニヤリと歪められたのは、流石と言うべきか否か。
「情報屋らしいんすわ」
 一瞬の沈黙の末に投下されたのは、簡潔な一言。知らず長義の口角が吊り上がる。
「どんだけ探っても、どっから来たか誰も知らねぇ、どんな人と成りなのかもわからねぇ、でも情報屋としての腕は確か。そんな面白い『お客様』、どうもてなしてやりましょうか?」
「ふふ、」
 笑い声が漏れる。これは楽しいことになってきた。昔から此処らを拠点としていた有能な情報屋たちが、挙って姿を消したこの焼け野原に、絶妙なタイミングで自らのこのこ足を踏み入れるなんて。自分を疑えと言っているようなものじゃないか。一体どんな間抜けな男なのだろう。
「行き先を変えようか。おい、ブランカに向かえ」
「は、はいっ!」
 ビクついた運転手が慌ててウインカーを出す。今まで向かっていた方向とは真逆に方向転換した車体は、夜の闇を切り裂くように真夜中の公道を直走った。
 煙たくなってきた空気を入れ替えようと、車の窓を開け放つ。肌を刺す冷たい空気が入り込んできた。季節は三月。春となり、暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。この溜まりに溜まりきった鬱憤の捌け口を見出したことに、長義の気分は若干上を向いた。ああ、どうやって遊んでやろうか。骨のあるやつだといい。
 そいつが件の情報屋失踪事件に絡んでいたというのなら、散々いたぶった後で捌いて売り払ってしまおう。いや、顔がいいというのなら、捌かずその手の悪趣味な金持ちにでも、愛玩用として売り付けてやってはどうか。人身売買は専門外なのだけれど、今回は特別だ。何にせよ、二度と日の目を見ることのないよう、徹底的に沈めてやるつもりである。だがもし、その客とやらが例の件に一切関わりのない存在であったなら……そうだな、
(有能なのであれば使わない手はない。骨の髄までしゃぶり尽くしてやろう)
 口に出すことの憚られる残忍な一面を、腹の底に隠して。優雅な笑みを形作る。美しい花には刺がある。まさに毒婦という言葉が似合う上司の様に、部下は鳥肌を立て、そっと後部座席から目を逸らした。
 現実逃避の如く窓外へ意識を向ければ、通り過ぎるネオンのギラついた輝きが、容赦なく男の目に突き刺さる。バクバクと物騒に逸る鼓動の音が、やがて平常のそれに変わった時。図ったかの如く唐突に速度を緩めた車が、道路脇に寄せられ、やがて完全に動きを止めた。


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