Violent Love
深く沈み過ぎて座り心地の悪いソファに、べったりと付き纏うキツい香水の匂い。豊満な胸をこれでもかと腕に押しつけられながら、男――山姥切国広は辟易とした内面はおくびにも出さず、店の女との談笑に勤しんだ。
「ねぇ、広瀬さん。また私を指名してくれる?」
「さぁ、どうだかな。その日の気分による」
むぅ。女がわざとらしく頬を膨らませる。
「もうっ、ツれないんだから。私を袖にするなんて広瀬さんぐらいよ?」
「それは光栄だ」
普段滅多に表情筋を使わないせいで、頬が引き攣ってくる。この女は次からは無いな。労力に対価が見合っていない。無駄な話が多過ぎる。それに自己アピールが激し過ぎて、相手をするのが少々面倒だ。アルコールで溶けている筈の思考回路は、しかし妙に冴えていて、冷静にメリット・デメリットの判断を下してゆく。
「……」
ちらり、と店の入り口付近に立つボーイの方へ目をやれば、まだ成人したばかりといった風態の青年が、じっとこちらを凝視していた。
(この店もここまでか)
店側に警戒されている。大方、嬢の何人かが国広へ本気になってしまっただとか、金払いの良さを訝しんでだとか、そんな裏方の事情だろう。拠点を此処に移してからというもの、これで五度目だった。思わず漏れそうになったため息を、寸でのところで押し殺す。こうなってはこれ以上の潜入は難しい。
(二週間……まぁ、もった方か)
今回ばかりは諦めよう。こんな時は早々に退散するに限る。すぐさま思考を切り替えて、撤退する方向へ思いきり舵を切る。そして勢いのまま、さっと荷物を纏めてボーイに向かい右手を挙げた。
「……また来る。会計を頼む」
「え!? 今日は早くない!?」
案の定、女が甘えたな声を出して引き留めてくる。その馬鹿っぽそうな喋り方が、良い具合に口が軽そうで魅力的に映ったのだけれど。興味が失せた今となっては、そのグロスが塗りたくられた唇から吐き出される軽薄な言葉の数々も、透けて見える自己顕示欲の塊のような精神の在り方も、欲が見え隠れする指先一つ一つの官能的な動きも、何もかもが不快でしかなかった。さらには元の女嫌いが拍車を掛けて、国広の機嫌はあっという間に底辺まで落ちる。
「……しつこいな」
「え?」
危ない危ない。うっかり心の声が出てしまっていた。幸いにも何と言ったか聞き取れなかったらしい女は、依然として期待をチラつかせた目でこちらを見つめている。
(はぁ……)
ただでさえ店から警戒されている状況下、このままここで押し問答するのは大変よろしくない。もう遅いかも知れないが、極力悪目立ちするのは避けたかった。
――去る時は可能な限り周りの印象に残らぬよう、特に慎重にな。
情報屋の師から教え込まれた鉄則が、脳裏を過ぎる。今更愛想の一つや二つ切り売りしたところで減るものなど無し。浮き足立った尻の軽い女たちなど、この忌ま忌ましい面でもってして上手く丸め込んでしまえ。そう一度腹を括った国広の行動は早かった。
「なぁ、一度しか言わないから聞いてくれ……」
舌打ちしたいのを堪えながら、己の要望が通ると信じて疑っていない女の顔へ、己のそれを近づける。ともすればキスしてしまいそうな程に近く迫った唇はされど、焦らすように脇へ逸れ、最終的に大振りの宝石が飾り立てる耳元へ移動した。それから多分の吐息を絡ませて、低い声で囁く。
「元々これから予定があったんだ。だが少しの時間だけでも、あんたに会いたくてな……つい、ここに来てしまった」
欲に潤んだ人工的なヘーゼルの瞳が、ぱっと輝く。
「本当はまだあんたと過ごしていたい」
「なら、」
「俺も我慢する。だからあんたも我慢してくれ……そう拗ねてくれるな。キスしたくなる」
「……したらいいじゃない」
「いや? もう少し焦らしてやりたい」
「酷い人!」
「そうかもな……そろそろ時間だ。また来る」
頬へ軽いキスを落とす。とろんと蕩けた目を向けてくる女に吐き気を覚えながらも、会計を済ませた。店の外に出ると同時に、素早くマスクとフードで己の容姿を隠す。
生まれつき与えられた黄金色の髪と、新緑の色を閉じ込めた碧眼は、昔から何かと良い意味でも悪い意味でも国広を目立たせた。整った顔立ちも相まって、男女問わず寄せられる援助交際の申し出を蹴散らした回数は三桁以上。トラブルに巻き込まれた回数は九十九回。絶賛リーチの最中である。おかげでクソ野郎たち御用達な口説き文句の『君は綺麗だ、美しい』という類の言葉は、すっかり地雷になってしまった。
ここまで被害を受けていれば、不審者のテンプレみたいなこの怪しい格好も、超一流ブランドの新作よりも魅力的に映るというもの。また、以前国広を力ずくでモノにしようとした男を半殺しにして以来、彼は外出先では己の容姿を、徹底的に隠すことを心に誓った。背に腹は替えられなかった。
当てもなく歩き始めた道中、偶に鼻腔に届く女の残り香に顔を顰めて、足元に転がった小石を遠くへ蹴飛ばす。
「……気持ち悪い」
幼い頃に見た悪夢が、突如として国広に牙を剥く。
薄暗い廊下、断続的に響く何かが軋む物音、微かに聞こえるはしたない女の嬌声。扉の隙間を覗き見たその時、まず目に飛び込んできたのは、発情した猫の如く鳴きながら腰をくねらせる女の姿だった。腰まで伸びた金髪を振り乱し、与えられる快楽にひたすら喘ぐ淫らな獣の姿は、寝物語の中に出てきた鬼よりもずっと恐ろしく感じられて、全身の毛穴がぶわりと広がる。また、顔も知らぬ男の上に馬乗りになったそれが、己の母であると悟った瞬間、幼子の心中はたちまち嫌悪感で埋め尽くされ、凍りついたようにその場から動けなくなった。
「……チッ」
嫌なことを思い出した。
碌に話したこともない、他人に等しい母親の記憶。国広にトラウマを刻み込んだあの女は、あの日から数日と経たぬうちに親父を裏切った罰として組から放逐され、二度とその姿を見ることはなかった。
『広瀬さん』
毒のように身体を巡る、下品なほどの甘い声。
『好きになってしまったの』
伏せられた瞳に影を作る、異様に長い睫毛。
『付き合ってくださらない?』
程良く筋肉のついた太腿を撫で摩る、魔女のように長く伸びた爪先。
潜入した店の女たちと、母の姿が重なる。女なんて、国広の容姿か金に釣られて寄ってくる、街灯に群がる羽虫どもと何ら変わらぬ存在だ。余程のメリットが無ければ誰が好き好んで近づくものか……いや、もうこれ以上考えるのはよそう。苛立ちが募り、ささくれ立った心が再び平穏を取り戻すのは、どうやら時間がかかりそうで。せめて身体だけでも冷却出来ればと、それまで羽織っていたジャケットを脱ぎ捨てる。
すぅ、と。初春の冷えた夜風が、頸を撫でた。一枚上着を脱いだだけで、鼻につく甘ったるい香水の匂いが、幾分かマシになった気がした。
「到着致しました」
「あぁ」
「お戻りはいつ頃で?」
バタンッ。
不意に、車のドアが開閉する音が耳に入る。どこぞの金持ちの送迎車か。音の方へと目をやれば、いかにもといった黒塗りのベンツが、人でごった返す大通りの道路脇に停められていた。
「それほど時間は掛からない。暫くここらを回っていろ。用が済めば呼ぶ」
「かしこまりました」
車から降りてきたのは、予想より年若い男だった。上等なスリーピースのスーツに身を包み、袖から覗くハイブランドの腕時計が嫌みなほど様になる、頭のてっぺんから爪先まで洗練された男。夜に映える銀髪が、安っぽい蛍光灯に照らされて輝き、端正且つ華やいだ顔立ちが、行き交う人々の視線を奪う。
(……堅気じゃないな)
浮き世離れした存在感に、何となく胸騒ぎがして進路を変える。なるべくあの男から離れろと、本能が警鐘を鳴らしていた。
「……っ! 兄貴! 例の奴が……で、……ます!」
「なんだって?」
男に背を向けて歩き出したその時、慌てた声が聞こえ何ともなしに振り向いた――そして銀髪の男の青い瞳と目が合う――ぐわんと脳天に衝撃を受け、直後背筋に悪寒が走った。
「っ待て!」
(なんなんだ一体……!)
国広は弾かれたように駆け出した。後ろからは二人の男が怒声を上げながら追いかけて来る。頬に大きな傷のある大柄な男と、先ほど車から出てきた銀髪の美丈夫の二人組だ。国広が彼らに何かをした覚えはない。だが、恨みを買いやすい職に就いている自覚はある。巡り巡って彼らに何らかの不利益を被らせてしまったのだろう。一体どこの誰の破滅に巻き込まれたのか知らないが、碌でもない事になるのが目に見えているのに、わざわざ彼らに捕まってやる理由は無かった。
「待て、この……っ」
「クソ、面倒な……!」
路地裏に置かれたゴミ箱を何個もひっくり返し、男たちの動線を塞ぐ。右へ、左へ、落書きだらけの壁に囲まれた細い路地を走り抜けて、人混みの中に出た。
「っ!」
「うぉい! どこ見てやがんだ!」
何人かと肩がぶつかりながらも、構わず足を動かし続ける。そうして走り続けること数十分。閑散とした街の外れまで来たところで、ようやく男たちを撒くことに成功した。
周囲の気配を探るも、先ほどまでひしひしと感じられた物騒なそれらは失せている。静寂の海に身を浸し、国広はほうっと安堵の息を吐き出した。
「はぁ、は、……ッ」
ぽた、ぽた。
とめどなく噴き出す汗が、ひび割れたコンクリートにシミを作ってゆく。溝鼠たちが這い回る、小汚い中華料理店の裏手側。ぐったりと壁にもたれ掛かり、それでも覚束ない足取りで歩き続けながら、国広は徐々に荒くなった呼吸を整えていった。
(あいつら、一体どこの奴らだ……?)
関東を拠点とする暴力団は多い。国広は情報屋として、いくつかの組織と取り引きをしたことがあった。しかし、その依頼たちはいずれも、どれか一つの組織を優遇するような、所謂『お抱え』的な立ち位置にはならぬよう慎重に吟味したものばかり。あんな一方的に恨まれるようなマナー違反は犯していない筈だった。
「……はぁ、……きっつ……」
疲労の溜まった足は震えて言うことを聞かない。必死に酸素を取り込もうと足掻いた喉奥なんて乾燥から引きつり、今にも血を吐きそうだった。かひゅ、という痛々しい呼吸音が漏れ出る。舌打ちをしようとして、舌がへばりつく感覚が不快でやめた。くそ、と。内心口汚く吐き捨てる。なんだってこんな、面倒なことに……。
「とにかく、早くここから離れ――」
ガッチャン。
「おや、お前にとってアウェイのこの場所に、安全な逃げ場所があるとでも?」
心臓が飛び跳ねた。
恐る恐る横を見やる。鮮烈に脳裏に刻まれた、冷たく輝くその美貌。瞳孔の開ききった青い瞳が、怒気に染まりこちらを強烈に睨みつけている。筋張った白い掌には、繊細な見目にそぐわない物騒なブツが握られており、その照準は容赦なく国広のこめかみに向けられていた。
「よくも俺の手を煩わせてくれたな?」
地を這うようなその声が、安堵と期待をズタズタに切り裂いてゆく。
「お前には色々と聞きたいことがあってね……。一緒に来てもらおうか」
これは、降参だ。
「……わかった」
押し潰されそうなほどの圧と緊迫した空気に、国広はゆっくりと両手を挙げ、悔しげに唇を噛んだ。そんな彼を見た銀髪の美丈夫は、まさに魔性と呼ぶのが相応しい妖艶な笑みを浮かべ、それまで掲げていた銃を一旦こめかみから離す。
「そう、聞き分けの良い奴は嫌いじゃない……だが、」
「ッガ、!?」
――ガツンッ!
一先ず即銃殺の危機は去ったらしい。
そう緊張を緩めてしまったのがいけなかったのか。そのまま懐へしまわれるかと思った拳銃は、しかし目にも留まらぬ速さで国広の後頭部目掛けて振り下ろされ、鮮やかな手つきでもってしてその意識を刈り取られた。
「ぐ、ぅ……っ」
「俺は五月蝿い犬は嫌いでね。だから静かにしていてもらうよ……運び出せ」
「は!」
*
カランカラン……というけたたましい金属音がして、意識が覚醒した。鈍痛を訴える後頭部に呻き声を上げながら、周囲を見回す。土埃の積もったタイル床に、空っぽの珈琲缶が転がっている。先ほどの音は、どうやらこの空き缶が転がり落ちた音のようだった。
両手両足を縛られてはいるものの、視界を制限されていないことに、とりあえずのところホッとする。これで五感を封じられていたら流石の国広でもどうにもならなかった。
(薬は打たれてないな。脳震盪で俺が倒れた後、適当な倉庫に転がしておいた、といったところか……)
パッと見る限り、ここは何処かの廃工場のようだ。所々ほつれている真っ裸のトルソーが、部屋の片隅に積み上がっており、その周辺には古くさい大型ミシンが無造作に放置されている。また、やたらと大きな作業台が、何台か足が折れていたり、引き倒されたりしているのが気にかかった。
(壁に落書きもある……ゴロツキの根城か? どのみちあまり長居したくはないな)
カツン、
複数の靴音が聞こえた。部屋の外からだ。距離は近い。退廃的な空間に、異質な物音はよく響く。
咄嗟に目を瞑って意識のないフリをした。緊張から強張る身体を意図的に弛緩させる。これが通用する相手がどうかはわからないが、少なくとも初めから意識があることを悟られて、最悪の事態に陥るよりは遥かにマシだった。相手に油断させればさせるほど、脱走のチャンスは生まれやすくなる。数々の修羅場を掻い潜ってきた国広は、こういった想定外の事態に巻き込まれた時の心得を、骨の髄まで叩き込まれていた。
「意識は?」
「無いようです」
男たちの声が段々と近づいてくるのを感じる。いいぞ、来い。返り討ちにしてやる。動きを封じられた両腕の関節を外し、縄の結び目を緩ませる。あと少しで拘束は外れそうだった。そして、完全に解ける手前のところで寸止めしておく。これで傍から見れば未だキツく縛りつけられたままに映るはずだ。
「これが?」
「はい。ブランカのオーナーにも確認させましたが、間違いありません」
緊張が張り詰める。男たちの一挙一動へ神経を研ぎ澄ませ、国広は機を待ち続けた。さながら息を潜めて獲物を狩る肉食獣の如く。呼吸を深く、ゆっくりと繰り返し、五感を集中させる。
「ふぅん……起こせ」
「はっ」
その時、本能的に危険を感じて飛び起きた。そのままの勢いで上半身を大きく仰け反らせる。ヒュッという音と共に、国広の金髪を靴の爪先が掠った。危ないところだ。あのまま寝転がっていたら、思い切り顔を蹴り上げられるところだった。
「やっぱり起きていたか」
「……っ随分な挨拶だな」
「せっかく俺が会いにきてやったというのに、ツれない態度を取るからだよ」
おはよう、お人形くん?
にっこり。まさにそんな言葉が似合うほどの満面の笑みを向けられ、鳥肌が立つ。それは猛毒を孕む笑顔だった。一見美しいはずなのに、人外じみた一線を凌駕している表情。これは、裏に生きている者同士にしかわからない、独特の空気だ。
「俺はこう見えても忙しくてね。今から君に幾つか質問するから、ちゃんと素直に答えるように。……でなければその人形のようにお綺麗な顔が、ぐちゃぐちゃになってしまうかも知れない」
ゴクッと唾を飲み込む音がした。
己の喉元から聞こえた音だ。ビリビリとした殺気と威圧感を前に、無意識の内に身体が逃げの姿勢に入っている。何人もの曲者たちと渡り合ってきた国広だが、ここまでの男と正面きってやり合うのは初めてだ。震えそうになる手を叱咤し、弱みを見せぬよう硬く握り込む。
(こいつ、何なんだ……)
もう何度も邂逅しているこの男に、国広はまったく心当たりがなかった。関東周辺の裏社会の構成図ならすべて頭の中に入っている。これでも一端の情報屋として飯を食っているのだ。関わりを避けた方がいい人間と、逆に媚を売っておくべき人間。そのあたりのパーソナルデータは、慎重にリストアップしてあった。だが、目の前の明らかに要注意人物であろう男の情報は、国広の情報網をもってしても何も引っ掛かってこない。
今ここに存在しているはずなのに、存在しない『ことになっている』。そんな男の在り方がよく知る誰かと重なって、不気味でならなかった。
「まずは一つ目、」
「……っ」
「『田代吉次』の名前に聞き覚えは?」
「……知らない」
何処かの組織の末端構成員だろうか。その名前に聞き覚えはない。端的に答えると、綺麗にセットされた銀髪が、一房流れ落ちる。完成された芸術品みたいな男は、一先ず国広の言葉を信じることにしたのか。「なるほど?」と小さく頷いただけだった。
「では次。『有川末光』は?」
「……知っている」
次の名前には心当たりがあった。東京では知る人ぞ知る情報屋。小さな依頼からディープな依頼まで熟す、所謂なんでも屋を営む男だ。最近はこちら側から足を洗ったと聞いていたが……。
「どこで彼の名前を耳にした? その男について、何か知っていることは?」
冷えきった瑠璃色の瞳が細められる。ぎゅうっと、無防備な心臓を鷲掴みにされたような恐怖を抱いた。無遠慮な視線が、嬲るように国広の頭から足の先まで這い回る。
「情報屋仲間の間では、名前が売れている方の男だったからな。同業者で知らない方がおかしい」
聞かれたことに淀みなく答える。途端に訪れる暫しの沈黙。ややあって、男はまた小さく頷いた。どうやら今回の質問も問題はなかったようだ。
「では最後の質問だ。『幹島秀久』に心当たりは?」
「っ!」
ダンッ!
反射的に強張った国広の肩を、間髪入れずに蹴り飛ばされる。受け身が取れなかったせいで頭を思い切り床にぶつけてしまった。ぐわん、と意識が揺れて、後から襲う痛みに呻く。この野郎、わざと怪我をしていた場所を打ちつけるように引き倒しやがった。苦悶の表情を浮かべながら、若葉色の瞳が瑠璃玉を睨みつける。
「こ、の……っ」
「痛かったかい? ……縄が随分と緩んでいるようだ。また逃げられると困るものでね。ついつい力み過ぎてしまった」
よくもまぁ白々しく。苦虫を噛み潰したような顔をして、国広は男を睨み続ける。そんな視線を向けられるのは男にとって日常茶飯事なのだろう。そよ風が吹いてますね、とでも言うかのように、飄々とした顔のまま男は言った。
「端的に言おうか。俺たちはこの三人を殺した犯人を探している」
「えっ……?」
幹島が殺された? 誰に? 何の目的で?
突然知らされた事実に混乱する。国広は、幹島のことをよく知っていた。ようやく許された自由の中、初めて踏み出した外界にて、右も左も分からない己に生きる術を教えてくれた、兄のような人。
国広は、ある日忽然と姿を眩ませた幹島を探すために、此処へ来た。こんな職業だ。何か事件に巻き込まれたのかも知れないと、ある程度覚悟はしていたことだった。しかし、名も知らぬ男から告げられた訃報を、はいそうですかと素直に受け入れられるほど、国広は身近な人間の死に慣れていなかった。
「死んだ……?」
「……あぁ。彼は俺と懇意にしていた情報屋だったんだが……何者かに殺されたらしい」
「そんな、まさか」
「何か知っていることは?」
そんなもの、あるわけがない。
あの人を殺した犯人を知っていたなら、とっくにそいつに何かしらの制裁は与えている。幹島の死自体たった今知ったのだ。国広側にこれ以上引き出せる情報など、持ち合わせているわけがなかった。
「……当てが外れたか」
男の表情に失望の色が浮かぶ。焦りが生じた。さぁっと顔から血の気が失せてゆく。このままでは己は、男にとって何ら価値のない存在として、汚らしい路地裏に放り捨てられるだけ。これではただの捕まり損だ。やっと幹島の手掛かりを持つ者と出会えたのに、何の情報も得られないとなれば情報屋の名が廃る。このチャンスをどうしてもモノにしたかった。
欲が出たのだ、きっと。
一度そう結論づければ、この男に縋る他手段がないのだと、勝手に追い詰められた気持ちになっていった。
(このまま、こいつを帰すわけには……っ)
冷静さを失うな。それが命取りになる。常に俯瞰的な視野を見失うな。嘗て、耳にたこが出来るほどに言い聞かせられたそれを思い返せるほど、国広に余裕は残されていなかった。
「……待ってくれ!」
こちらへ背を向け、出口の方へと歩き始めた男を呼び止める。
「幹島さんは、……あの人はいつ、」
「詳しいことは部外秘なんだ。君には教えられない」
「俺は! あの人を探しに此処へ来たんだ! もし本当に殺されたとしたら……このまま手ぶらでのこのこ自分のシマに帰るなんて、自分で自分が許せない!」
幹島には多大な恩があった。情報屋としての心得を教えてくれたのも、仕事のノウハウを教えてくれたのもあの男だ。彼のおかげで、今国広はこの物騒極まりない弱肉強食の世界で息が出来ている。彼に色々と教えてもらわなければ、世間知らずの国広などとっくの昔にハイエナ共の餌食にされていた。
「対価は?」
男が言う。平坦な声だ。交渉慣れしていることが、男の淡々とした態度から察せられる。
「……っ」
「お前は情報屋なんだろう。何事も、情報を得るにはそれだけの対価が必要だ。今のお前は、俺に何を差し出せる?」
この時点で、何かがおかしいと感じられない程度には、国広は冷静さを失っていた。
男は笑っていた。こちらを見下ろして、心底おかしそうに。この時国広は、持ち前の卑屈を発揮して、己を嘲笑しているのだと思い込んでいたのだが。実のところ男は純粋に今、この瞬間に起こっている駆け引きを楽しんでいただけであった。
もっともそのことに国広が気づいたのは、すべてが終わった後のことである。男の掌の上で無様にワルツを踊らされていたと知って、憤死しそうなほど怒り狂ったというのは、完全な余談だ。
「俺の懇意にしていた情報屋が三人殺された」
「な、にを……ぐ、ッ」
突然語り始めた男に動揺する。国広はまだ対価を差し出せていない。一方的に与えられる情報には、必ず裏がある。今すぐ耳を塞いでしまいたかったが、男がそれを見越したように国広の両腕を踏みつけてきたので、それは叶わなかった。
「俺たちは彼らを殺した犯人を追っている。彼らがいなくなったのは結構痛手でね。おかげで俺のシマのシノギは三割も減ってしまった」
「……おい」
「俺の管轄は西東京と東の一部で……あぁ、そういえば君に名乗っていなかったね。遅くなってすまない。俺の名前は――」
「おい!」
喉から血が出るのではないかと思うほど叫んだ。首筋が引き攣り、無理矢理動かそうとした両腕の関節が、男の磨き抜かれた革靴の下で悲鳴を上げる。タイル床に接している右肩がやけに冷たい。聞きたくない。その先は絶対に聞いてはいけない。恐怖すら覚える嫌な予感に、全身から冷や汗が噴き出た。
「なにかな? 人が話している途中なんだけど?」
「何のつもりだ……」
「ふふっ……意外と賢しいじゃないか。少々の知恵は回るらしい」
「はぐらかすな!」
「さて、話の続きだ。俺の名は『山姥切長義』」
――長船組の若頭だ。
ひゅう。
声のなり損ないが、気管を通り抜ける。長船組といえば、小田原を拠点とする堀川会と並ぶ規模の組織で、関東一円を仕切る指定暴力団だ。構成員の詳細に関する情報は完全に秘匿され、幹部の人数はおろか中堅構成員の面すらも、組織の規模の割にあまり知られていない。あの何を考えているかわからない秘密主義な長船の、しかも若頭が、何故こんなにもあっさりと己の身分を明かしたのか。二度も強烈に打ち付けた後頭部の痛みが酷くなる。そもそも、この男の言っていることは本当なのだろうか。
自分のキャパシティを超える膨大な情報量に、思考が追いつかない。
「頼みがあるんだ」
グイッと顎を掴まれ、顔を上げさせられる。至近距離で目にした瞳はギラついていた。冷涼な色合いに不釣り合いな、苛烈なそれ。その温度差の激しさに、やたらと惹き込まれる。
「俺の手駒となってくれないか」
拒否権のない問いかけ。あまりの理不尽さに笑ってしまいそうになる。
「……嫌と言ったら」
「一時間後には可愛い『お人形』になっているかな」
「どうせ拒否権はないんだろ」
不満げに顔を顰めると、くつりと笑われた。初めて見る自然な笑みだった。今まで見てきた、毒婦みたいなあれより余程安心して見ていられる。
ちょっとした意趣返しに馬鹿正直にそう言ってやると、「怖いもの知らずは長生きしないよ」だなんて宣いながら、とてつもなく痛いデコピンをかまされた。どうにも男――長義の思い描いたシナリオ通りに事が進んでいるのが気に食わないが、今だけは甘んじて流されてやろう。なけなしの矜持を奮い立たせながら、国広は見栄を張ってみる。
「で、何をすればいいんだ?」
「簡単な話だ。俺たちと一緒に犯人捜しを手伝って欲しい。契約満了はとりあえず三ヶ月。延長するかどうかは、その間のお前の働きを見て判断する。どうだ?」
「……俺を雇うのは高いぞ」
「へぇ、なら前金は三本でどうだい?」
「はぁ?」
「成功報酬は五本でいいかな? 成果次第ではボーナスも検討しよう」
相場の三倍以上である。ふざけているのか。怪訝な視線を送るも、当の本人は嫌みなくらい綺麗な顔に、薄ら笑いを浮かべているだけ。揶揄い二割、本気三割、挑発五割といったところか。やってられるかこの野郎。もうどうにでもなれ。長義との会話に疲弊しきっていた国広はついに思考を放棄した。
「話は終わったな……帰らせてもらう」
いつかその喉笛を噛みちぎってやる、と心の内で呪詛を吐きつつ、両腕を踏みつけている男の足を乱暴に振り払う。そして、あっさり縄を解いて帰り支度を調え始めれば、「お前は近年稀に見る大物だな」と心底呆れた風に吐き捨てられた。
夜はまだ長い。
薄暗い部屋の外からは、ひっきりなしにサイレンが鳴り響いている。やけくそに床を転がっていた空き缶を蹴飛ばして、出口へ向かった。すれ違い様、強引に尻ポケットに突っ込まれたメモには、あの若頭様の連絡先が書かれているのだろう。考えるだけで辟易した。長船組幹部のパーソナルデータと連絡先。情報屋としては眉唾物のお宝情報を、されど国広は今すぐ燃やしてやりたくて仕方なかった。
心なしか重さの増した尻を労るように撫で摩る。懐に入っていたひしゃげた煙草を一本取り出し、口に咥えた。
「ライター……」
ポケットを漁る指先に、されどいつもの感触がない。何処かで落としてきたか。つくづくツイてない日だ。空っぽの内ポケットから手を離し、フィルターを投げ捨てる。
明日にでもあの男が変死体となって海から発見されないだろうか。
その場合、第一容疑者は自分か。はは、と渇いた笑いを漏らし、舌打ちをする。
外灯のない真っ暗闇の中、帰路を辿る。家に着いた頃には、長義のメモはぐちゃぐちゃに丸まっていて、吐き出したガムの包み紙みたいになっていた。己の仕事用スマホに手早く登録を済ませると、国広は劇物に等しいそれを躊躇無く燃やして灰にする。
そして真新しい登録データを呼び出して、とりあえずワン切りしておいた。
悪戯電話と間違えて、どうか着信拒否してくれますように、なんて世界一無駄な祈りを捧げながら。