こんこんと雪が降っている。
庭先の寒椿の上に薄らと積もった真白が、時折ずるりと滑り落ちては土色を白く染めた。何の面白みもない景色を曇ったガラス越しに眺めつつ、徐に窓を開けては外界へ手を伸ばす。刺すような冷たさは確かに感じているのに、まるで他人事といった風に赤くなっていく掌を見つめる己は、他人の目には魂の抜けた人形のように映るに違いない。そこまで考えて、今さら気にするだけ無駄か、と切り捨てた。何せ此処には、国広以外の誰も寄りつかない。よって、初めから無い人の目を気にする必要性など皆無なのだから。
子どもは、親を選べない。生まれる場所を選択する自由なんて、ない。
山姥切国広の生まれた堀川家は、小田原を拠点とするその筋の家……平たく言うとヤクザの総本山だった。それだけでも腹がいっぱいだというのに、加えて国広は当代組長の実子ではなく、頭も尻も軽い母が不貞を働いた末に生まれた、所謂不義の子というやつで。さらには母の不義相手、国広にとって実の父が他所の暴力団の幹部であったことが決定打となり、激怒した親父は母を冬空の下、身一つで追い出した。
本来なら国広も同じく放り出される筈だったのだが、そこは慈悲深い親父殿。あの状態の母がまともに国広を育てられるわけがないと判断したのだろう。哀れみか、それとも同情か。とにかく何かしら思うところのあったらしい親父は、まだ赤子であった国広を追放することはせず。こっそりと堀川の敷地の片隅にある離れに、その身を置くことを許してくれた。
そんな生まれの背景もあって、国広には産声を上げたその瞬間から何処にも居場所がなかった。行動は常に監視され、血の繋がった兄二人と満足に面会することも許されず、許されたことといえば格子付きの窓から外の世界を恨みがましく眺めることだけ。戸籍上は存在しないことになっていたので、学校にも通えなかった。
死んだように生きている。存在しているのに、存在していない。歪な在り方はやがて国広の精神をも歪ませ、伸びしろだらけな幼子の情緒を殺した。
今日も、代わり映えのしない外の世界を眺め続ける。朝日が昇り、日が沈むまで。やけに長い一日を送り、ただ生きるためにいつの間にか部屋の前に置かれている膳を空にする。だが、そんな生き地獄のような毎日が唐突に終わりを告げたのは、国広が十八になった冬のこと――親父が死んだ日のことだった。
(あ、雪が……)
寒椿の上に積もった雪が、ゆっくりと滑り落ちてゆく。
ずるり、ぐしゃっ。
「……っ!」
ベッドの上で飛び起きる。
唐突な覚醒に驚いた身体は、酸素を取り込もうと必死になって、呼吸が乱れた。激しい運動をしたわけでもないのに、ぜぇ、ひゅう、という落ち着きのない呼吸音が頭蓋の内側に木霊する。
「……いやな夢だ」
自分が自分で無くなる夢。自我が削られ、人の形を失っていく恐怖に心を蝕まれる、忌ま忌ましい過去の記憶。
『おはよう、お人形くん?』
鋭利な美貌を晒しながら、そう宣った男の薄い唇を思い出す。
あの男が国広の過去のことを持ち出して、故意的に人形なんて言葉を使ったわけではないとわかっている。わかってはいるが……。やはり自分も自覚していないところで、古傷を覆う瘡蓋の一部が剥がれてしまっていたようだ。親父が死に、後を継いだ兄の協力で自由を得た今。それでも一度傷ついた心はなかなか元に戻ってくれない。多分、一生この痛みが治癒することはないのだろう。そんな気がする。
まぁ、治らなければ治らないで良いのだが。何も死ぬわけではあるまいし。
「……起きるか」
スマホで時刻を確認すると、電子時計が指し示している時間は午前七時。まだ早いが、すっかり目が覚めてしまった。これは二度寝出来る気がしない。おまけに汗で全身ぐっしょり濡れていて、このまま寝直すのは躊躇われた。シャワーを浴びるついでに洗濯もしてしまおう。そうざっくりと予定を決めて、国広は寝台から足を降ろした。
――ピンポーン。
起き抜けの鈍った思考を引き締める、インターホンの音。
今日は来客の予定は特にない。築古アパートのため隣室のベルの音が響いたのか、なんて首を傾げていると、また催促するようにベルが鳴った。どうやら聞き間違いではないようだ。訝しみつつ、足音を立てぬよう注意しながら、そっとドアスコープを覗き込む。
「……は?」
ドアの前に立っていたのは予想外の人物だった。仕立ての良い上下そろいの黒スーツに、黒い手袋。変装しているつもりなのか眼鏡を掛けているけれど、銀髪碧眼という目立つ容姿のせいで、ますます人目を引いてしまっている。
たった今目にした現実が信じられなくて、国広は一度ヤニで黄ばんだ部屋の壁へ視線をやってから、もう一度ドアスコープを覗いた。アパートの前を通りかかったご近所の女子小学生が、ポウ……と客人に見蕩れているのが見える。あんな小さな子どもでもやはり女は女なのか。げんなりする国広をよそに、彼女の周りの通勤途中のサラリーマンやら主婦やらが、続々とこちらの方を振り返るところまで観察して、ようやく国広は観念することにした。
これ以上目立って堪るか。こちとら後ろ暗い商売をしている身だぞ。一応こんなでも隠れ家のつもりなのだ。変な噂が立って注目されるなんて冗談じゃない。
「遅いぞ」
神経質そうに片眉を吊り上げながら、男――山姥切長義が言う。無性に殴りたくなった。
「休日のアポなし訪問はマナー違反だ」
「アポを取るにもお前の番号がどれかわからなかったものでね。まったく留守電を入れるという頭も無いなんて、クライアントとしてこの先が不安でならないよ」
「流石は長船の若頭様だ。大層おモテになるようで……どうやってこの場所を調べた」
「企業秘密だ」
鋭く咎める国広の声に、男はぬけぬけと返す。大仰に肩を竦めて躱す姿が無駄に様になっているのが、尚更苛立ちを誘った。
「とにかく俺はアポなし訪問はお断りしてるんだ。お引き取りを、『クライアント様』」
「いいからチェーンを外して家に上げろ。ドアを蹴破られたいのかな?」
機嫌が底辺を這っている様子の男にため息を吐いて、渋々チェーンを外す。この男なら本当にドアを蹴破るくらいはしてみせそうだ。それに、このまま押し問答を続けて悪目立ちするのは、こちらとしても望むところではない。どうぞ、と形ばかりの出迎えの挨拶を投げかければ、当然のような顔をして家に上がり込んでくるものだからイラッときた。
「それで何の用だ、こんな朝っぱらから」
玄関口の壁にもたれ掛かり、勝手にベッドへ座りだした男へ問う。物珍しそうに部屋を見渡す長義は、「見窄らしい部屋だな」と失礼な独り言を漏らして、何故か写真を撮り始めた。いや本当に、何故?
「おい、何撮ってるんだ」
「すごいな。生まれて初めてこんなに狭い部屋に入るよ。取り立て先の奴らの家でもまだこれより広かった」
「なんだあんた、こんな時間から喧嘩を売りにきたのか? 暇人なのか?」
「はは、面白いことを言うね。……あんまりナメた口利いてると沈めるぞ」
ドスの利いた声を吐かれギョッとする。やはり本場の睨みは凄みが違う。とはいえ、国広の場合は実家が実家なので、多少脅されたところで恐怖に足が竦んだり、怯んだりといったことはないのだが。
「……忘れたのかと思っていた」
ぽつり。国広が呟く。その言葉の意味を正確に理解した長義は、ハッと鼻で笑い飛ばした。
「なんだ、寂しかったのかい? 連絡できなくて悪かったね。ここ最近忙しかったんだ」
「そういう意味じゃない」
まるで恋仲の相手に囁くような、そんな甘ったるい声を出されて、慌てて全力で否定する。
「そこまであからさまに拒否しなくてもいいじゃないか。童貞じゃあるまいし」
「俺は童貞じゃない」
「ふふ、」
この男と話していると頭が痛くなってくる。早くもどっと疲れて深く息を吐き出すと、小さく笑われた。確信犯か。まったくタチの悪いことだ。
「さて、この前は碌に話も出来ずに終わってしまったからね。依頼についての詳細をお伝えしようと、わざわざこの俺がここまで出向いた次第だ」
ふんぞり返る長義を無視して、廊下と一体化している狭苦しいミニキッチンで湯を沸かす。確かもらい物の高級茶葉があった筈だ。フレーバーに文句は言わせない。客人用のティーカップを戸棚の奥から引っ張り出して、念のため一度洗剤で洗い直す。そうこうしているうちに鍋の中の湯が沸騰し始めたので、すぐに火を止め、茶葉を適当に放り込んだティーポットに熱湯を注いでいった。すっきりとした柑橘系のフレーバーの香りが、鼻腔を通り抜ける。
「ん、茶だ」
「あぁ、どうも」
砂糖が必要かどうかわからなかったためストレートのまま出してみたが、やはり必要はなかったらしい。一口紅茶を啜った後、少しだけ機嫌が上向いた男は再びつらつらと流れるように話し始めた。本当に良く口の回る男だ。その間にも国広は冷蔵庫から羊羹を取ってきて、甲斐甲斐しく長義の分を切り分けてやる。
紅茶に和菓子は邪道だと? そんな拘りは糞くらえだ。食べたいものを食べて何が悪い。
「……というわけで、俺は幹島たちの案件には長船の幹部が絡んでいると見ている」
「なるほどな」
長義の話は最初から最後まで一切無駄がなかった。
現在彼は若頭として、次期組長となるための下積みをしている段階であるということ。しかしそれを良く思わない一部の古狸たちが、長義の跡目継承を阻止するべく、水面下で動き始めているとの情報を掴んだこと。そして、今回起きた幹島たちの一件に関しては、長義の存在を邪魔に思っている何者かが、彼と取り引きのあった情報屋たちに目を付け、危害を加えたのではないかということ。成る程確かに筋は通っている。
「……だが、そこで何故俺なんだ? 長船は昔からかなり保守的で、内部の情報を頑なに秘匿してきただろう?」
そこが、国広が違和感を覚える最大の理由であった。長船の秘密主義は少し異常なくらいだ。にもかかわらず、ここまで徹底した機密性を保つ組織が、こんなぽっと出の情報屋に依頼を持ちかけてきた。裏がありますと言われているようなものである。これで疑うなという方が無理な話であった。
「よく知ってるね。まったくその通りさ。うちは情報管理についてかなり厳しくてね……どんなにくだらないネタであろうと、少しでもしくじれば次の日には東京湾にふやけた水死体が浮かんでいる」
「……」
「だが、今回に限って俺は、外部の手が必要だと考えている。何せ身内に入り込んだネズミを炙り出さなければならないからね。なるべくうちの組織を客観的に見て判断してくれる目が欲しかった」
ティーカップに映り込む己の顔へ、何気なく視線を落とす。本当にこのまま長義の話を鵜呑みにして良いのか、まだ迷いがあった。一通り話を聞いてみても、彼の話におかしな点は見当たらない。あの長船内部の動きを探るというのは、些か国広には荷が重い依頼だとは思うが……それも絶対に不可能というほどのものでもない。何しろ長船の若頭というとっておきの切り札がこちら側にはあるのだ。その時点でかなりアドバンテージはあると言えた。
(ただ、そうだな……綺麗すぎる)
まるで予め国広向けの模範解答を用意してきたみたいだ。話の流れに違和感がなさすぎて、いっそ歪に感じられる。こういう時の己の直感は、あながち馬鹿にしたものではないと知っていた。だからこそ、この話を受けるのに躊躇いがあった。
「前にも言ったが、お前は後戻りのきかないところまで首を突っ込んでるんだ。拒否権は――」
「無いんだろ。それぐらいわかってる。だが……ただあんたの指示通りに動くだけじゃ、俺としてはメリットが少ない。それにリスクが高過ぎる」
「……へぇ。この俺と対等に取り引きしようっていうんだ?」
「これでも情報屋なんでな」
情報と報酬。取り引きにおける等価交換。この場合の最適な対価として、何を要求するのが正しいか。否、約束させれば、国広の安全は保障されるのか。
「……詮索をしないこと」
「ん?」
「俺のことについて、一切詮索をしないことを約束して欲しい」
きょと、とこちらを見返す瞳を、真っ直ぐに射抜いた。真剣な眼差し、強張った表情、真一文字に引き結ばれた唇。それら一つ一つから、国広の本気が伝わってくる。
「……いいだろう」
長義はやや間を開けてから、静かに国広の条件を承諾した。存外表情豊かな瑠璃色の瞳には、ありありと好奇心の色が滲んでいたけれど、約束した手前深く突っ込むこともせず。彼の口からこちらを探るような言葉は飛び出してこなかった。
「……感謝する」
山姥切長義。同じ山姥切の姓を持つ男。初めてこの男の名を耳にした時から、薄々そうではないかと思っていた。
国広の母は他所の暴力団の幹部と不貞を働いたという。ずっと考えていた。国広の本当の父親は誰なのか。でもその答えを、この男はそうとは知らずに国広の下へ運んでくれた。この出会いは、ある意味では僥倖だ。
「こんなものでいいだなんて……少し叩けば一体どれだけ埃が出てくるのやら」
「黙秘権を行使する」
「こんな条件さえなければ即刻探ってやったものを」
長義の父親・つまりは長船の当代組長。これはまだ想像の範囲内だが、恐らくそいつが国広の実の父親だ。
(まだ確証はないが……それも調べていくうちにわかるのだろうか)
巡り巡って、己の兄らしき男が持ってきた厄介事。これも因果か。思わず苦笑を漏らすと、長義に怪訝な目を向けられた。じっとりとした視線には気づかないふりをして、ベッド横のサイドテーブルに置きっぱなしの煙草を手に取る。トン、トン、と掌に箱を軽く叩けば、見慣れたフィルターが一本飛び出してきた。
それを口に咥え、テーブルの上の百円ライターへ手を伸ばす。しかし、その手の動きは黒手袋に覆われた細長い指先によって、やんわりと制止された。
カチッ……ボッ。
「……どうも」
高そうなジッポに灯る火へ顔を近づけ、先端を炙る。息を吐き出せば白煙が眼前を揺蕩い、煙の向こう側の顔が霞んだ。今目の前に座っている相手が、自分の腹違いの兄弟だと知った時、こいつはどうするのだろう。ぼんやりと考える。跡目継承のライバルとして殺そうとするのか、それともまた前のように屋敷に軟禁でもされるのか。どう転んでも悪い結果にしかならなそうで、これは墓まで隠し通さなくてはならないな、と白煙混じりの深いため息を吐いた。
(さて、どうしたものか……)
血の繋がりが無いにも関わらず、自分を匿ってくれていた親父が死んだ今、国広に帰る場所はない。兄弟たちはいつでも帰ってこいと言ってくれたけれど、彼らは良くてもその周りの連中はいい顔をしないだろうことは、容易に想像がついた。だから国広は糸の切れた凧のように、点々と住み処を変えながら、心の内に空いた虚を埋められる何かを、ずっと探し続けている。
果てのない旅路だ。嫌気が差してくる。生まれてくる子どもにも、誰のもとに生まれるか、何処に生まれるか、きちんと選択権があればよかったのに。
(兄弟、な……)
隣を見れば、ちょうど長義が細身のフィルターを咥えたところだった。何となく顔を近づけてやると、その意図を察した男もまた口元を寄せてくる。煙草の先同士が触れ合い、薄らと赤く染まってゆく。完全に色が移りきった後、男はまた何事もなかったかの如く国広から距離を取り、元の定位置に身体を収めた。
「なぁ、あんたは何のために煙草を吸うんだ?」
別に、深い意味など持たない問いかけ。気まぐれを起こして投げつけた中身のないそれに返されたのは、「喫煙の理由なんて、早死にしたい以外に他の理由があるのか?」という、百点満点の答えだった。
「ふ、違いない」
「今さら馬鹿なことを聞いてくるんじゃないよ」
兄弟、か。
こんな風に気兼ねなく軽口を叩き合える関係がそれだというのなら、それは随分と心地良いもののように思えた。もう少し、この歪な家族ごっこに興じてみても良いかも知れない。そんなことを考えながら、吐き出した白煙をぼんやり眺める。
この男と俺が、兄弟。
腹の底がじんわりと温かくなってくる。これが浮き足立っているということなのか。しかし、ふわふわとした思考を打ち落とすように長義が煙を噴きかけてきて、不意を突かれた国広は激しく噎せ込み、涙目のまま男を睨んだ。
「何をする」
「なんとなくムカついたから」
「意味がわからん」
穏やかな時間というのは流れが速く感じるのだということを、国広は生まれて初めて知った。
「お前、名前は?」
「……、」
「何だよ、名前を聞くのも契約違反なのか?」
「……広瀬」
それはどうしようもなく、幸せな夢を見ているようだった。
「広瀬と、呼んでくれ」
残酷なほどに幸福な、仮初めの夢を。
*
長義からの依頼を受けて一ヶ月ほど。外を歩けば満開の桜が咲き乱れ、吐く息が白くなることもなくなった。季節はまさに、春の真っ盛りだ。
あれから国広は、長船内部の組織構成について隅から隅まで調べ上げた。勿論、長義が許容する範囲内でのことではあるけれど。その結果判明したのは、組織の構成員数はざっと三千人程度で、中でも役職付きの幹部たちはたったの十五名であるということ。また、現状幹部たちは大きく分けて、二つの派閥に分かれているということだった。
当代組長を信奉する舎弟頭を筆頭とした『光忠派』。
完全実力主義な幹部たちから厚い信頼を寄せられている長義を筆頭とした『長義派』。
前者はその名の通り、《若頭には長らく組長の傍で補佐役を務めた燭台切光忠こそ相応しい》と考える者たちによって構成されており、後者は《若いがシノギの稼ぎ頭である長義こそが次代組長に相応しい》と考える者たちで構成されている。勢力的には、当代組長公認で若頭に就任した長義派の方が圧倒的に有利な状況で、光忠派に関しては一部の古株たちが光忠本人の意思を無視して、過剰に騒ぎ立てているだけのような印象を受けた。というのも、光忠は別に組長の座を継承したいとは考えておらず、今まで通り組長補佐として長船を支えていきたいと、身内に時折漏らしていたようなのだ。
本人たちを差し置いた代理戦争は、日々激化の一途を辿っている(長義派の場合は当の本人も俄然ヤる気満々なのだが)。先日は派閥の異なる末端の組員同士の間で諍いが起き、チャカを持ち出しての大騒動となった。既に何人か死傷者も出ていて、若頭の長義としては事態の一刻も早い収束を求められ、流石の彼もかなり頭を悩ませているようである。
「ん……何かないか……何か……」
カタカタカタ。
キーボードを叩く音が部屋の中に響く。相棒のノートパソコンに保存されている、各幹部たちのパーソナルデータを一つ一つ洗い直していった。名前、住所、管轄エリア、主なケツモチ先、私的な交友関係、財務状況……。見たところ、どれも典型的な筋者のプロフィールそのもので、特筆するべきところは見つからない。
「それにしても、なんでここまであいつの若頭就任を拒むんだ?」
確かに今年二十三歳となる長義は、若頭としては異例なほど若い。だからといって、若いだけが理由で当代組長の決定に反してまで、彼の継承を妨害しようとするのは、いくらなんでもやり過ぎなような気がした。
(あいつが権力を持つことを恐れている……?)
だとしたら、何故?
その部分を知るには、もっと深い部分を探る必要がある。それこそ、幹部たちだけの情報ではなく、今まで長義がどのようにして金を稼いできたのか、彼自身がどういった人間なのかといった、根深いところまで。
「さて、あいつがそれを許すかどうか……」
「へぇ、俺が何を許すって?」
「う、わっ」
突然耳元で話しかけられて、身体が飛び跳ねる。テーブルの上に置かれた湯飲みが、ガチャガチャと耳障りな音を立てた。慌てて倒れないよう手で押さえ込み、何とかパソコン水没の危機を回避する。
「な、なんで、おま、おまえ……っ」
「はは、良い反応をするな」
「何勝手に入ってきてるんだ!」
施錠はした筈だ。窓もきっちり閉まっている。どっから入ってきやがった。
「お前ね……あんな旧式の鍵が施錠の役目を果たすとでも……?」
心底残念なものを見る目をされて、怒りのあまり熱々の茶をぶっかけてやろうかと思った。とりあえずテーブルの裏にぶつけた膝が物凄く痛い。ついでに若干茶がかかった右手の甲もヒリヒリしている。苦痛に顔を歪める国広を長義は楽しそうに眺めるばかりで、特に労るような言葉を掛けるでもなく。ようやく口を開いたかと思えば、ただ一言「もうちょっとそっちに詰めろ」と言ったきり、無遠慮にぐいぐい隣へ詰めてきた。苛立ちを通り越していっそ呆れる。
「あんた……自由過ぎないか」
「下僕相手に気を使うなんて無駄なことはしない主義でね」
「げぼ、……っ」
この部屋にはソファだのダイニングテーブルだのという小洒落たものはないので、すべての家具がコンパクトな仕様となっている。さらに一人暮らしを前提としているので、客用座布団なんてものも勿論用意はしていなかった。一応気を遣って、今まで自分が使っていた座布団を譲ろうかと思ったが、何となく腑に落ちないのでやっぱりやめた。……せいぜい硬い畳の上に座り続けて、足が痺れてしまえばいい。
しかし、そんな国広の目論みを嘲笑うように、「さっさとそれを寄越せ」なんて蹴りを入れられて、結局無理矢理座布団から引き剥がされてしまった。
「……このっ」
あまりにも理不尽。傍若無人。これは古株たちから反感を買うはずだ。国広は長義が次代組長になるのに断固反対している者たちの気持ちを、心から理解した。
「ふぅん、……この短期間でよく調べてるじゃないか」
それまで国広が見ていたパソコン画面を覗きつつ、長義が呟く。
「おい、商売道具だぞ。勝手に見るな」
「なに、ちょっとした監査だよ。俺たちについて余計なことまで嗅ぎ回っていないか」
「関係ないものまで漁るなよ」
「その辺はちゃんと弁えてるさ」
ざっと画面を上から下までスクロールして、国広が集めた長船組幹部たちの情報を、長義が確認していく。みっちりと黒文字が敷き詰められた画面が、三十ページに差し掛かったところで、長義の手の動きが止まった。画面に表示されている人物の名前は、大西憲吾。執行部の本部長を務めている長船の重鎮だ。
「そいつが気になるのか?」
「……」
険しい顔で画面を睨みつける長義は、五ページに渡る大西のプロフィールデータを熟読していく。大西については国広も気になっている点がいくつかあったので、特に印象に残っていた。一つ目は、この男がケツモチしている店にチャイナが複数名出入りしていたことについて。そして二つ目が、
「……こいつの息子が、昔俺の部下だった」
――大西の息子が、他所の組との抗争中に死亡した件について。
「部下? あんたの?」
「あぁ。部屋住みから卒業した後、俺のシノギに同行するよう指示が降りてね。数ヶ月ほどだったが、共に行動していた。なかなか有能な男だったよ」
大西の息子が長義の直属の部下だった。尚且つ若くして死んでいる。長義に咎はないだろう。若衆が抗争中に命を落とすことはよくあることだ。
「……そうか」
逆恨みの線もあるな。それに、この男についてはまだまだ気になることが沢山ある。一応表向きは長義派を名乗っているが、それも本当のところどう思っているのかわからない。さらに調べを進める必要がありそうだ。
「……こいつの店にチャイナが出入りしているところを何度か見掛けたんだが、長船は奴らと取り引きしたりは?」
「チャイナ?」
秀麗な顔が、途端に顰められる。
「……そんな報告は受けていない。どういうことだ」
「なぁ、山姥切」
初めて口にした男の名前。己と同じ苗字を口にするのは、何だか違和感がある。
「この件に関して、俺はもっと深く探ってみたいと思ってる。長船の幹部たちについてだけじゃない。あんたのことも」
パソコン画面から目を離し、隣に座る長義の方へ顔を向けた。ブルーライトに照らされた整った横顔が、ゆっくりとこちらを振り返る。今まで意地悪く微笑んでいるか、険しい顔をしているかの二択だった男のそれは、意外なことに無防備な表情を晒していた。ぽかんと口を開けて、呆気に取られている美しい男。幼子のようにも映る純真な姿に、国広の内心は酷く騒ついた。
「俺はあんたをよく知らない。だから、もっとあんた自身のことを教えてくれないか?」
「……お前、は、」
ピンポーン。
長義が何か言いかけたタイミングで、図ったように部屋のインターホンが鳴った。今日も今日とて来客の予定はない。こういったシチュエーションにおける招かれざる客人の第一候補は、現在国広の隣で石像よろしく固まっているので、新聞の購読勧誘か何かかと適当にあたりをつける。放っておけばそのうち帰るだろう。早々に無視することを決め、国広は再び男の方へと視線を戻そうとした。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
「……ったく、何なんだ」
が、そんな国広の意識を引き留めようとでもするかの如く、呼び出し音が連打される。気味の悪さを覚えて眉根を寄せれば、その頻度はさらに激しさを増した。どいつもこいつも、人の家のインターホンを何だと思ってるんだ。築古物件をなめるな。この前も長義が無茶をやらかしたおかげで故障して、ベルの音が止まらなくなったのだ。つい先日修理したばかりだというのに。
「はぁ……ちょっと出てくる」
「あ、おい……っ!」
仕方なしに玄関口へと急ぐ。その間もインターホンは壊れたように鳴り続けていた。もしや本当に故障したのでは。そんな嫌な予感に苛まれながら、ドアスコープを覗く。
「……は?」
デジャヴ。完全一致。既視感なんてもんじゃない。またもやそこには、予想もしていない人物の姿が映り込んでいた。
「……はい」
そっとドアを開け、チェーンが繋ぐ扉の隙間から顔を覗かせる。
国広の顔を見た途端、パァッと輝き出した人工的なヘーゼルの瞳に、悪態を吐きそうになるのを寸でのところで耐えた。そして、こちらの辟易した様子などお構いなしに、派手な化粧をした女はグロスを塗りたくった唇を開閉する。
「広瀬さん!」
この女は、長義に攫われる直前まで出入りしていた店の嬢だ。
「……なんでここに?」
「広瀬さんに会いたくて……だって、また来るって言ってたのに、あれから全然顔を見せに来てくれないんですもの」
頭が痛くなってくる。一夜の夢を与える仕事をしている女が、現実にも夜の関係を持ち出してくるのは、明らかなルール違反だ。店ではどういう教育をしているのか。
「あー……悪かった。忙しくて……」
「あら、でも最近はあんまり家から出掛けてないみたいじゃない? もしかして在宅勤務ってやつなの?」
さらりと国広の行動を把握している女に鳥肌が立つ。なんだコイツ。いや考えるまでもない。国広には何度か同じような経験があった。これは間違いなくストーカーだ。
「広瀬さんが来てくれないから、私全然仕事に身が入らなくなっちゃって……。オーナーからも怒られちゃったの。でも、私広瀬さんのことが好きだから、もう他の客に愛嬌を振りまくなんて絶対無理だし……ねぇ、広瀬さん。いつになったらお店に来てくれるの? 私と一緒に暮らしてくれるの? もう私、限界なの……毎日広瀬さんのことばかり考えてる。私たち、あんなに愛し合ってたじゃない。広瀬さんも私のことを好きって言ってくれたじゃない。私はこんなにすきですきですきでしかたないのに、どうして、……ねぇ、なんで?」
女の話の途中でドアを閉めなかったことを褒めて欲しい。誰か警察を呼んでくれ。切実に国広はそう願った。警察を呼ばれて後々困るのは自分なのにだ。
昔から国広は、こういったストーカー女……基、メンヘラストーカー女たちから異様に好意を寄せられた。国広の見る目が無いのか、それとも自分が関わったからまともな女もメンヘラになってしまうのか。とにかくしつこく女たちからは付き纏われるわ、薬を飲まされて既成事実を作られかけるわ、心中しようと後ろから刺されそうになるわ、本当に女という生き物と関わると碌なことにならなかった。
「、ぅ……」
数々のトラウマが蘇り、身体が硬直する。顔色は真っ青どころか土気色になっており、ドアノブを握る右手は震えていた。
「ねぇ、広瀬さん、ドアを開けて、ねぇ、開けてよ」
「……」
「開けてったら、ねぇ!」
「どうした、何を騒いでいる?」
「あ、やまんばぎ、り……」
助かった。長義の声が聞こえ、ほっと胸を撫で下ろす。情けない顔をしているのは重々承知の上で、国広は後ろを振り向いた。
「て、はぁ!?」
しかし、廊下に立つ男の姿を視界に捉えた直後、驚愕のあまり叫び声を上げる。
「おいおい、久しぶりに会ったっていうのに、なに他の女に現を抜かしてるんだい? あれだけ『前の』女は綺麗に切っておけって言っただろう?」
胸どころか臍のあたりまで大胆にはだけた白シャツ、いつもはきっちりセットされているにもかかわらず不自然に乱された銀の髪、くつろげられたスラックスの前からチラリと覗く、高級ブランドのロゴが入った黒いボクサーパンツ。トドメに、欲に濡れた瑠璃の瞳が、混乱する国広へ意味深な視線を送ってくる。
今から一発ヤるところでした、と言わんばかりの、芳醇な色香を惜しげもなく振りまく美丈夫。歩くアダルト雑誌みたいな男が、ボロアパートの廊下に立っていた。
「え、いや、は? ちょっと待ってくれ、」
「お前はとっくに俺のオンナなのにね? まだ理解出来ないっていうなら、また身体にわからせてあげようか?」
「やま、んぅ……っ! んん!」
女が外側のドアノブを握っているので、扉は開きっ放しだ。動揺する国広を置き去りにして、長義がいきなり深いキスを仕掛けてくる。呼吸のため薄く開いた唇の隙間から、舌を突っ込まれた。口内を好き勝手動き回るそれは、国広のイイところを見つけるや否や、容赦なくソコを攻め立ててくる。
じゅぷ、じゅぷ、と性交のような音がした。
耳の裏を指先で擽られ、戯れに唾液を飲ませられる。苦しくて、でも気持ち良くて、頭が真っ白になった。
「は、ぁ……っん、やめ、」
なんて、甘ったるい声。
本当に自分が出しているのか信じ難いくらいに蕩けた声が、二人の理性を溶かしてゆく。抵抗すべく男の胸板へとあてがった掌は、快楽に浸りきった身体ではただ男に縋る淫猥な拘束と成り果てた。
ぬるりと上顎を舐め上げられる感覚が堪らない。生理的に溢れる涙を親指で優しく拭われる度に、腰が切なげに震える。いつの間にか女の存在は気にならなくなっていた。ただ重ねられる唇の熱さと、己を蹂躙する舌の動きに夢中になる。獣のように互いを貪り合って、吐息すら貪欲に食らい尽くした。それはまるで、骨まで食い散らかしてやるというような、淫らで暴力的な口づけだった。
「そんな……うそ、うそよ、いや」
女が、何か言っている。みっともなく喚き散らす大声が、おぼろげな意識まで届いた。あぁ、またご近所の間で悪目立ちしてしまう。早く宥めて黙らせなくては。
されど長義の嵐のようなキスは、まだ終わる気配がない。
「ん、ぅ……アッ」
散見する思考を咎めるべく、長義の指先が明確な意図を持って国広の下半身を掠めた。ほんのり芯を持ち始めた己の欲望。太股に擦り付けられている彼のそれも、硬くなっているように感じられる。
「は、……気持ちいい?」
「ぅ……ん、……もち、い……」
ガッチャン。
扉が閉まる。耐えきれなくなった女が、自ら閉めたらしい。あぁ、ようやくこれで終わった。そう今度こそ安堵した国広は、さらに快感を得ようと長義の舌を己のそれで絡め取ろうとした。
「ふ、」
しかし、彼は微かな吐息だけで笑うと、軽い力でもって国広の肩を押し、あっさりと身体を離してしまう。
「……あの女はどっか行ったな。もう、終わりにする?」
「え、……」
無意識に物欲しげな声が出た。それから己のしようとしていたことに時間差で気がついて、カァッと頬が熱くなる。あのキスは、女の追及を逃れるためのものだった。だというのに今自分は、欲に流され更なる行為を強請ろうとしていた。
「……っ」
熱を持て余した身体は、まだ終わりたくないと駄々を捏ねている。心も羞恥に苛まれながらも、このまま終わるのは嫌だと痛切な悲鳴を上げていた。そんな国広の心情を察した長義は、満足げに口端を吊り上げ、真っ赤に熟れた耳の傍で甘く囁いてくる。
「ふふ、じゃあ……もうちょっと……」
「ぁ、ふ……んッ」
同意なく再開されたディープキス。長義の手が、国広のベルトを外そうと不埒に蠢く。もっと気持ち良くなりたい。まだ、足りない。そのまま彼の手に身を任せようと身体から力を抜いた……つまりは二人とも思いきり油断しきっていた、その時だ。
「このクソホモインポ野郎!」
ダンッ!
家の前で叫ばれたあまりにも不本意な罵声にギョッとする。続いて傷だらけの鉄扉を蹴り上げられ、一気に本能に埋没した理性が帰ってきた。
「くっ……ぶは、」
あの女の罵声を一緒に聞いていた長義が、耐えきれないとばかりに噴き出す。ホモ云々については、そう思い込むようにこちらが誘導したことだから、甘んじて受け止めるとして。誰がインポだ、こちとらまだまだ現役だ。されどそんな国広の主張は、悲しいことにこの目の前の底意地の悪い男にしか届かない。
「……お前、インポなの?」
つつ、と。しっかり熱を持っている分身をなぞられる。今触っているのだからわかるだろうに。わざわざ国広の口から言わせようとしているあたり、やはりこいつは救いようのないくらいに性格が悪かった。
「違う!」
「ふ、くく……っ」
上半身を丸めて爆笑している男の下半身は、キスの最中ほどではないが、まだ若干昂ぶっている。このまましてやられたままなのも癪なので、悪戯に膝で玉を押し上げてやった。すると、腹が引き攣るほど笑っていた男が、「うっ」と小さく呻きを漏らす。その反応に気を良くして、今度はボクサーパンツの上からきわどいところを撫でてやれば、真っ赤な顔をした男が憎らしげにこちらを睨みつけてきた。
「……犯すぞ」
血走った眼光に、地獄の底から這い出たような声。反射的にパッと勢いよく男から距離を取り、咄嗟に降参のポーズを取る。ややあって、男は国広の顔をじいっと熱く見つめてから、気まずげに目を逸らして言った。
「……手洗いを借りる」
抜いてやろうか、と鼻で笑いながら揶揄ってやろうと思ったのだが。本当に処理を手伝わされる未来が見えたのでやめた。我ながら懸命な判断である。
「……俺も抜くか」
男の、しかも兄弟相手におっ勃つなど、どれだけ溜まっていたのだか。思わず遠い目をしつつ、長義がトイレにこもっているのをいいことに、国広は風呂場へ向かう。
こんなのは誤作動だ、誤作動。
虚しい後処理が終わった後、ジャーッという流水音がしたと同時に、長義が何とも言い難い顔をしながらトイレから出てきたのを見て、「随分と長いトイレだったな」と半笑いで揶揄ってやった。当然、間髪入れずに脳天に容赦ない拳骨を食らった。痛みのあまり涙目となってしまったが、奴の精神にはそれなりのダメージを食らわせられたようなので、これはこれで良しとする。
「……あんた、キス上手いんだな」
ぼそり。悔しげに呟く。国広もそれなりに経験は積んでいる方だが、あそこまで腰砕けになるキスが出来るかといわれると、自信が無かった。
「それ以上言うとほんとに襲うぞ」
純粋に羨んでの言葉であったのに、何やら湾曲した意味で受け取ったらしい男は、食い気味に国広を脅しにかかってくる。なんて男だ。被害妄想も大概にして欲しい。ただ、偉ぶっているくせに焦った声で突っかかってくる長義が、ちょっとだけ可愛く見えないこともない……なんて思った時点で、恐らく国広は正気を失っていた。
「冗談だ」
暗黙の了解で今回のことはまるっと水に流そうということになったけれど、そう簡単に心の整理がつくなら、人間もっと楽に生きられるというもので。結局その後も微妙な空気が流れ続けた二人は、事務的なことだけ報告し合って、その日の会議を終えた。
このまま妙に距離が開いたまま終わりの日を迎えるのだろうか、などと考えていた国広は知るよしもない。
次の日には開き直った長義が、国広の可愛らしい反応見たさに色々ときわどいちょっかいを出してくるようになることを。これから何度も傍迷惑な女たちが国広の家へ襲撃を繰り返しては、偶然居合わせた長義によってなす術なく返り討ちにされ、涙ながらに撤退を余儀なくされることを。
そう、国広は知らなかった。
既にこの時から、長義の国広を見る目が、獲物を狙う肉食獣のそれに変わっていたことを。