キーボードを打ち鳴らす音が断続的に響き渡る。
部屋の壁を埋め尽くすくらい大量に設置されたモニターには、街中の至るところの景色が切り取られていて、偶に拡大縮小を繰り返しては画面が切り替わっていった。ああでもない、こうでもない、と部屋の真ん中で休みなく手を動かしているのは、腐れ縁とも言える長年の付き合いの悪友だ。本名なのかどうかわからないが、ソハヤと名乗るその男とは、互いに持ちつ持たれつの関係を築いており、今回国広は天才ハッカーと謳われるこの男に助力を乞うため、この窓一つ無い地下の隠れ家までわざわざ足を運んだのだった。
「どうだ」
「あー、今んところ大西のシマにある監視カメラを片っ端からハッキングしてはいるが……決定的なモンはねぇな」
長めの襟足を一つに束ねたその様は、あちこち跳ねる髪質と目立つ金色ということも相まって、巷で売られている猫じゃらしのようだ。うずうずとちょっかいを出しそうになる手を理性で押さえ込み、国広はしれっと画面に集中しているフリをする。
「これも違ぇ、これも……。まぁ自分のシマで堂々とチャイナと仲良くするなんざ、よっぽど肝が据わってねぇと無理か……」
カチッ、カチッ、と重めのタイピング音が鳴る度に、画面が切り替わる。川沿いの住宅街、繁華街の路地裏、大通りの交差点。数ヶ月前の記録まですべて遡って探しているものの、大西とチャイナに繋がりがあると断定できるような場面は未だ確認出来ていなかった。やはり近場ではなくもう少し範囲を広げた方がいいのかも知れない。
「今見てるのは横浜か?」
「あぁ、事務所から二十キロ圏内でめぼしいところを探してる感じだな。なぁ国広、お前こいつの出入りしてる店とか心当たりないか? 東京らへんで」
「東京か……」
パッと思いつくだけで六箇所程度、あると言えばある。だが、そのどれもが人の出入りの激しい店で、密談をするには不向きな場所だった。
「……いや、違うな」
人の出入りが激しいからといって、密談に不向きとは限らない。例えばナイトクラブならどうだ。少し声を潜めれば大音量で流れる音楽に声は掻き消され、人に話を聞かれず密やかにやり取りすることが出来る。だとすれば、大西のケツモチ先であるあそこなら、あるいは。
「六本木の『クラブ・ウィズ』を探ってみてくれ」
「はいよ」
右上のモニターに店の外観が映る。比較的新しめの小綺麗な商業ビルだ。ナイトクラブ自体は地下にあるらしく、目が痛くなりそうな煌びやかな看板が、しつこいぐらいに地下へ降りるよう案内している。外観を映すモニターの隣には受付カウンター付近の映像が表示され、そのまた隣にホール内の様子が映し出された。狂ったように踊り、叫ぶ若者たちの姿の中に、目的の人物は見当たらない。
「最近は便利なもんでよ、顔認証システムなんてもんがあるのさ。だから、こっからここまでの日付で設定して、大西の顔を登録……エンター、と……お、ビンゴ!」
記録の日時は四月十八日二十二時四十分。今から二週間以上前の日付だ。建物内の監視カメラの一つに、VIPルームへ通される大西の姿がバッチリ映り込んでいる。大西は最近事務所に篭もりがちで、滅多なことがなければケツモチ先に顔を出さない。そのため、この日は自らが出向かなければならないほどの何かがあったのだろうことは、容易に予想がついた。
「VIPルーム内にカメラはないのか?」
うーん、と唸ったソハヤが、淹れ立てのコーヒーを一口啜って答える。
「ないな……大方、撮られると不味いことをするために、敢えてカメラを外してるんだろ」
「だろうな」
「あ? おい、国広。ここ見てみろ」
「……これは、」
大西がVIPルームに入室したのと同時刻、クラブ・ウィズの建物の前に一台の車が停まった。黒塗りのベンツだ。いかにもといった風態のそれはスモークガラスとなっており、中に誰が乗っているのかモニター越しでは判別出来ない。
「……降りてきた」
車から降りた人物を拡大表示する。間違いない。国広が張り込み中に何度か見かけた、チャイナの一人だ。
「おいおい、コイツは……」
「なんだ、知ってるのか?」
「最近やたらとここらで見かける香港マフィアの野郎だ。んだよ、長船絡みだったのか」
香港マフィア。となると、赤蛇か梟といったところの組織か。奴らは虎視眈々と日本の闇市場に薬物を持ち込む機会を窺っていると聞く。あまり印象の良くない奴らだ。
「一気にきな臭くなってきやがったな……。おい、お前大丈夫か? 下手に首突っ込むんじゃねぇぞ?」
「……あぁ」
早々に厄介ごとの気配を察知して、ソハヤが気遣わしげな視線を送ってくる。それに一つ頷いて、国広は今まで掘り起こしたデータを元に頭の中で推測していった。
まず大西とチャイナが繋がっているというのは、これで確定だ。また、チャイナの正体が香港マフィアというからには、その取引内容は十中八九薬物関連で間違いない。しかし、長船組は薬物でのシノギは御法度としている筈だ。もし組のルールを犯して奴らが薬での金儲けを企んでいたのだとしたら、嗅覚の鋭い長義が組長となるのは、大西にとって目障り以外何ものでもないだろう。それに大西は、息子のこともあって元より長義に対して良い感情を持っていない。彼を蹴落とそうとする理由としては十分過ぎるほどだ。
「……これで繋がったか」
「国広、」
くるり、くるり、また場面が切り替わる。香港マフィアの男の顔を登録したことで、またさらに決定的な場面が出揃ってきた。休みなく手を動かしながら、ソハヤは続ける。
「俺はよ、俺と似たような境遇を辿ってきたお前のことを、こんなんでも気にかけてるわけ」
「ソハヤ……」
「置物みてぇに屋敷の隅に押し込められてよ。このままつまんねぇ人生送って、誰も知らねぇ場所で野良犬みたいにくたばってくのかと思っていたが……やっと好き勝手させてもらえるようになったんだ。お前だってそうだろ? だからよ、お互い自由を謳歌して、好きなことやって生きてこうぜ。……つまんねぇ死に方だけはすんじゃねぇぞ」
「……ふ、そうだな。」
目を細め、ゆったりと微笑む。
「お前の言う通りだ」
「さーて、いっちょこいつらをダイジェストに纏めてやろうかねぇ!」
長義に報告する用のデータとして、ソハヤに大西とチャイナ関連の映像を纏めてもらう。ついでに香港マフィアの動きを探るために、奴ら単体で映っているものも別のディスクに保存してもらった。だが編集の最中、何となしに奴らの映像を眺めていると、気になるものを見つけて慌ててソハヤに再生を止めさせる。
「……なぜ、」
香港マフィアの男たちと共に映っている男。人好きのする笑みを浮かべ、とても裏社会で生きているとは思えないくらいに優しげな風貌をしているその人。それは国広の師とも言える人だった。
「……幹島さ、ん?」
――死んだと言われていた幹島が、香港マフィアの男たちと共にフレームの中で笑っていた。
何だか酷く疲れた。
重たい身体を引きずって、玄関扉の鍵穴に鍵を差し込む。立て付けの悪い鉄扉を押して中へ入ると、嗅ぎ慣れた煙草の臭いが鼻腔を満たした。やはりヤニの匂いは落ち着く。気が抜けてずるずるとしゃがみ込みそうになる足を叱咤し、そのまま廊下を歩く。
「……ん?」
そして、パチッと電気をつけると同時に、謎のベッドの膨らみが目に飛び込んできて、あぁまたかとため息が漏れた。
「あー……帰ったのか?」
「なんでまたいるんだ、山姥切……」
ヤクザの辞書に不法侵入なんて言葉はないのかも知れないが、一応善良な一般市民として生きているつもりの国広には、いるはずのない人間がそこにいるというだけで非常に心臓に悪い。だが、此処へ来る際には事前に連絡を入れろ、と何度も言っているにもかかわらず、国広の言葉を右から左へ聞き流し続けたこの男は、既に両手の指の数では足りないほど同じ行為を繰り返していた。
「今日は随分と遅かったな」
「少し出ていてな……あんた飯は食ったのか?」
「まだ……」
「なら作ってやるから、さっさと顔でも洗ってこい。酷いツラしてるぞ」
この男から依頼を受けて早二ヶ月。怒涛の勢いで時が過ぎた。日々めまぐるしく過ぎてゆく時の流れの速さは、まるで慌ただしい師走のようだ。まだ五月というのが、にわかに信じ難い。
「いつになく疲れてるな」
「それはお前もだろ。廊下を何かが這いずる音が聞こえたものだから、てっきり貞子でも出たのかと思ったよ」
「なんだ、ビビったのか?」
黒マスクをゴミ箱へ放り投げてから、鼻で笑ってやる。
「まさか。この家で死体が出たらどう処理しようか考えていた。コンクリもスーツケースもないし」
「人の家を思いつきで事故物件にするな」
冷蔵庫には何が入っていたっけ。無意味に開けては閉じてを繰り返す。献立を考えるのが面倒だから焼き飯でいいだろうか。そうだ、傷んでいた野菜たちをコンソメスープにして、ついでに一掃してしまおう。その場でうんうん考え込んでいれば、ぬっと背後に立った男の腕が腰に回される。
「はぁ……疲れた」
前にメンヘラストーカー女に襲撃されて間違いを起こしかけてからというもの、長義の距離感がおかしくなってしまった。まずとにかく距離が近い。あの後あれだけ気まずい空気が流れていたというのに、次の日にはけろりとした顔で、肩は抱いてくるわ腰に手を回してくるわで開き直っていたものだから、国広は驚くと同時に真剣に長義の薬物使用を疑った。まぁ予想は見事に外れて薬には手を出していなかったのだが(そこで長船が薬物を御法度としていることを知った)。
もしやっていればマトリに密告してガサ入れさせたものを。まったく残念な話である。
「そんなに疲れているなら自分の家に帰れ。その方が落ち着くだろう。少なくとも、こんなに狭いぼろアパートよりはな」
「そう言ってくれるな。お前の嫌がる顔を見るのが最近のマイブームなんだよ」
「……本当、性悪もここまでくるといっそ清々しいな」
ぐりぐりと力加減も無く肩に擦り寄られて、普通に痛い。離れろと突き放してやりたいところだが、それをやってしまうと絞め殺さんばかりに抱き締められることを知っているので、敢えてそのまま引っつかせておいた。よって、渋々ぐちゃぐちゃになった銀色の旋毛を撫でるに留まる。段々と長義の扱い方がわかってきた自分が恐ろしい。
「ベッド横に置いてある俺の鞄」
「?」
「その中に、今日の収穫が入ってる。後で確認してくれ」
トン、トン、トン。
まな板の上のネギを刻んでゆく。国広が疲れた身体で夕飯を作っているというのに、長義はそれをただ肩越しに眺めているだけだ。やれば出来るのにそうしないのは、男曰く「俺のために働いている広瀬を見るのが愉快だから」らしい。とことん性格が捻じ曲がっていて尊敬の念すら覚える。
「大西と香港マフィアが繋がっていた」
「……」
「恐らく薬物が絡んでいる。大規模な抗争になるかも知れない。……気をつけろよ」
「広瀬」
偽りの名前を呼ばれて振り向く。この奇妙な半同居生活が始まった当初、頻りに帰れと突っぱねた国広に対し、俺のことが知りたいんだろう? だなんて高慢に笑い言ってのけた男の姿を思い出した。こいつはなんだって、こちらの心を掻き乱そうとしてくるのか。
この男と自分の間に血の繋がりがあると知った時、国広はただその真実を自分一人が知っていればそれでいいと思っていた。別に、真実を知っているだけで、だからといってこの男と特別親しくする必要もなければ、無理に距離を縮める必要だってない。そう、思っていたのに、
「やま、ん……っ」
顎を掬い取られ、やわやわと唇を食まれる。長義の気まぐれで偶にされる口づけは、やたらと甘くて気が狂いそうなほどに優しかった。
「嫌がらないんだ?」
ぺろり。見せつけるように自身の唇を舐め取る男が、挑発的に囁く。
「……あんたの狙いは『俺の嫌がる顔』みたいだからな」
「ほんと、生意気……」
広瀬、と名を呼ばれる度に、違うと叫びたくなる。本当の名前を呼んで欲しい。俺を認識して、意識して欲しい。そう考えてしまうのは、何故だろう。こんな熱の塊みたいな強烈な感情を抱くのは初めてで、どうすればいいのかわからない。
家族愛には生まれつき恵まれなかった。
だから、これが兄弟に向ける親愛なのか、それとも別の何かなのか。国広にはまるで判断がつかない。
「ぷ、はっ」
「ふ……さて、俺はお前の『収穫』を確認してくるかな」
唐突に唇を離した長義が、怪しく笑って国広の頬を撫ぜる。ちゅっと軽いリップ音を響かせ、上気したそこへバードキスを落とした彼は、そのまま呆気なく踵を返した。
「あぁ、ご褒美についさっき入ったとびきりのニュースを教えてあげよう」
いつだってこの男は、こちらが名残惜しいと感じるタイミングであっさり引き上げてしまうのだ。それを憎たらしく思いつつも、満更でも無い自分がいて。国広は一方的に負けたような気にさせられる。
「大西が殺された」
「え、」
されど次の瞬間もたらされた衝撃的な一言に、それまでの甘美な空気が一気に離散する。
「事務所からの移動中、車の中でね。こめかみに一発、綺麗な殺しだった。腕利きのスナイパーの仕業だろうね」
長義はそう言ったきり、今度こそリビングの方へ去ってしまった。一人残された国広は、包丁片手に唖然とその場に立ち竦む。
大西が殺された。奴を捕らえて上手いこと自白させれば、諸々のことも明らかになったかも知れなかったのに。香港マフィアと内輪揉めでもしたのか? いや、だとしても向こうも日本国内で薬をばら撒くチャンスを、そう易々と手放したりするだろうか。そもそもだ、懸念は香港マフィアの動きだけじゃない。
(大西が殺されたとなると、長船内部の動きはどうなる?)
大西が香港マフィアと繋がっていることを知らない長船の組員たちは、ともすれば今回の殺しは光忠派の仕業だと考える可能性もある大西は表向き長義派だった。ならば大西が香港マフィアと繋がっていることを知らない長船の組員たちは、ともすれば今回の殺しは光忠派の仕業だと考える可能性もある。最悪勘違いした血の気の多い輩が、弔い合戦として内紛を起こすことも、十分に考えられるだろう。
(その隙にチャイナに攻め込まれでもしたら……ひとたまりもないぞ)
ダンッ。
コンロの上にフライパンを置き、火を点ける。切り刻んだ材料を放り込んで炒めれば、痛々しい野菜たちの悲鳴と肉の焼ける匂いが部屋に充満した。すっかり食欲は失せている。長船の動き、チャイナの狙い、幹島のこと。考えることが山積みで、しかし脳は疲弊しきっていて、集中が途切れ途切れになる。
「広瀬」
長義が、俺を呼んでいる。俺ではない俺を。存在しない存在を。
「……山姥切、皿を持ってきてくれ」
「はぁ? 俺を使おうっていうのか?」
「不法侵入者に人権があると思ってるのか?」
「あー、はいはい。わかったよ」
叫び出したくなる、この気持ちは――一体なんだ?
*
「んだよ、まだくたばってなかったのか? ……にゃ」
無礼極まりない言葉と共に、事務所の扉からするりと入ってきた男は、先代、いや先先代からだったか……ともすればもっと前の世代から続く、腐れ縁の組織の幹部であった。
猫の耳を思わせる緩くウェーブした金髪に、縦に裂けた瞳孔。転がる毛玉を見れば身体がうずうずし、日向を見つけたなら欠伸が止まらなくなるという、まるきり猫そのものな気質を持つそいつは、代々猫の呪いを受け継ぐと言われる南泉家の出の者であり、長義とはかれこれ十数年ほどの長い付き合いになる。
「おあいにく様、俺は死神に嫌われているものでね。お迎えは当分先じゃないかな?」
フゥ、と白煙と共に吐き捨てると、南泉がしみじみと頷く。
「テメェが死神みてぇなもんだしな。同族嫌悪か、にゃ」
「その減らず口を今度こそ縫い付けてやろうか? 猫殺しくん」
南泉の所属する一文字組と長船の因縁について、詳しいことはよく知らない。何でも昔長船組が九州に拠点を置いていた頃に、同盟関係にあったとかそうでないとか。そのあたりの話は適当に聞き流していたためうろ覚えだ。
「お頭が『長船が面倒なことになってるから様子見てこい』つって蹴り飛ばしてきてよ、しょーがねぇからこうして来てやったわけだが……」
ちらり。南泉の意識が扉の方へ向く。意図を察した長義は、扉の前に立っていた部下たちへ素早く指示した。
「おい、お前たちは席を外せ」
「へ、へいっ」
「悪りぃにぁ、まぁこれで煙草でも買ってこいよ」
ぽいっと南泉が乱雑に財布を投げ渡す。だが、他所の組の奴におこぼれなぞ、と受け取った部下たちが困惑していると、見かねた南泉が「お頭からお疲れ気味の長船の奴らに、菓子でも恵んでやれって持たされたんだわ」なんて言い出したので、彼らは戸惑いつつもそれを懐に収めた。長義も長義で一連のやり取りを静観するに留め、部下たちからの伺うような視線にも無視をする。流石に同盟関係にある組の長の好意を無碍にすることは出来ない。
「で? 人払いしてまで話したいこととは、一体なんなのかな?」
慌ただしく部下たちが出て行って暫く。しんと静まり返った事務所にて、長義が切り出す。時間は有限だ。ましてこのクソ忙しい時に、無駄な時間を堕情に消費したくはなかった。
「……小田原の堀川会、わかるか?」
「あぁ」
わかるもなにも関東に拠点を置いている筋モノならば、誰もが知っている指定暴力団だ。義理と人情を通す昔ながらの任侠そのものな彼らの在り方は、こちら側の人間の中でも憧れを持つ者は多い。
「最近世代交代したんだったな」
「そうだ、にゃ。今は山伏国広って奴が組長をやってる」
そこまでの情報は既に掴んでいた。今年の二月には出回っていた情報なので、話題に出すのもかなり今更感がある。一体それがどうしたというのか。
「山伏に弟がいるのは知ってるな? ……にゃ」
「堀川国広のことか? 今は組長補佐として良くやっているとは聞いているが」
「実はもう一人弟がいる」
その話を耳にした長義の目が、微かに見開かれる。完全に初耳の話であった。あれほどの大きな組織の、しかも組長の兄弟についての話であるのに、次男坊の噂こそ耳にする機会は多くあったが、その下にさらに三男坊がいるなど聞いたことがなかった。もしや家を捨て堅気にでもなっているのだろうか。そうでもなければ理由がつけられない。
一人思考を巡らせていると、神妙な顔をした南泉が続ける。
「……三池の次男と同じだ、にゃ。堀川の三男も、先代組長の意で存在を隠されていたらしい」
三池の次男、と聞いてなるほどと納得する。例えば妾が産んだ子どもであったり、何らかの理由でその子どもがいるとなると都合が悪くなる場合、その存在を無き者として扱うことは、こちら側の世界ではよくある話であった。特に組長の継承権が絡んでくる話なら尚更だ。
「へぇ……驚きはしたが、それが? 堀川に三男坊がいたからといって、わざわざ福岡から伝書鳩をしに来たわけじゃないだろ」
こくり。
南泉が頷く。しかしその後、一瞬躊躇うように視線を泳がせた彼は、ややあってから重く口を開いた。
「人身売買の商品にされたって話を聞いたんだ……にゃ。その三男坊ってのは何でも金髪碧眼の超美人で、その手の好事家たちが血眼になって欲しがってるんだと」
胸糞悪い話だぜ。
ゲェッと舌を出し、心底嫌悪を露わにする南泉。不本意だが同意見だ。裏社会の一部でそういった非人道的な行為が行われているのは知っていた。長義自身も何度か闇オークションの場には、付き合いで連れて行かれたこともある。異様な熱気にあてられて、吐き気がするほど気分を害したので、もう二度と足を運ぶことはないけれど。そういう商売がある、という程度は認識していた。それにしても、堀川会の三男が商品にされていたとは……。その話だけでも胸のあたりが騒つく。奴らの節操のなさはやはり好きになれない。
「それで……買われたのか?」
「いや、それが売りに出されるって情報は出回ったらしいんだが、その『商品』が入荷されることはなかったんだとよ」
「どういうことだ?」
「バイヤー諸共姿を晦ましちまったんだ、にゃ」
「……バイヤー?」
「幹島秀久。お前んとこのお抱えの情報屋だよ」
カチッという何かが嵌まる音がした。
突如行方を晦ませた幹島と、それをカモフラージュするかの如く消えた数人の情報屋たち。それと同時期にこの街へやってきた、幹島に恩があるのだという金髪碧眼の美しい男。
「俺たちゃ痺れを切らした堀川の奴らに依頼されたんだわ。長船お抱えの情報屋の、幹島って男を攫ってこいってな……にゃ。山伏は本気で弟のことを心配しててよ、先代が死んでから行方知れずになったそいつを、密かにずっと探し続けてる」
南泉が何か言っている。確かに耳は機能しているのに、その内容がちっとも頭に入ってこない。
「幹島に関しては生きてりゃいい。五体満足かどうかは問わないとのお達しだ、にゃ。んで、まずはお前と腐れ縁のある俺に白羽の矢が立ったってわけよ」
「名前は」
反射的に問うていた。口から飛び出した声は乾いている。喉が張り付いて気持ち悪い。部屋の温度は適温なはずなのに、じとりと汗が噴き出してくる。
「『国広』」
「……」
「『山姥切国広』だ、……にゃ」
得体の知れない感情が溢れてくる。鳥肌が止まらない。これを興奮というのか、絶望というのか、今の長義にはどう言えばいいのかわからなかった。ただ気まずげに目を逸らして言った南泉の顔が、くっきりと網膜に焼き付く。眉尻を下げ、忙しなく視線を彷徨かせ、必死に言葉を探す男。その仕草が、表情こそが、長義と山姥切国広の間にある秘められた繋がりを示す、紛れもない証拠であった。
「やまんば、ぎり……?」
「……多分な、お前んとこの親父のガキだと思う、にゃ」
ふ、と。顔を赤らめ、こちらを睨みつけてくる広瀬を思い出した。
初めは打算だらけで近づいた。まだ行方どころか生死すら不明の幹島を、敢えて死んだと嘘をついて、あの男に恩があるのだという国広の復讐心を焚き付けた。それからは長義の目論見通り、国広は必死になって幹島とその周辺の人間を徹底的に調べ上げていき、ついには光忠派の不穏な動きと、奴らのチャイナとの繋がりを知るに至った。
有能な男だ。だが世の中の汚さを知らない。己の見ている世界が酷く狭く、限定的なものでしかないのだということを自覚していない。愚直で、従順で、驚くほど頑固。だから、長義のような男にまんまと利用される。
(哀れな男だ)
だがその愚かさを愛しいと思ったが最後、長義は衝動的に唇を重ねていた。ただの戯れのつもりだった。本当に気まぐれに、あの常に澄ました表情を崩さない人形のように整った男の顔が、自分のせいで歪められるのを見るのが面白くて。何度も何度も触れ合っては、打てば響く彼の反応を楽しんだ。そのうち一緒に過ごす時間が心地良くなり、気がつけばあのボロパートの六畳一間に入り浸るようになっていた。国広の近くにいれば、いつか幹島が釣れるのではないかという打算もあった、なんていうのは今となってはただの言い訳だ。
「くにひろ、……国広ね」
ようやく知ることの叶った、男の真名を舌の上で転がす。さながら高級肉でも頬張るかの如く。ゆっくりと咀嚼し、己の熱で溶けてゆく脂身の甘さを、じっくりと味わう。
「そうか、」
家族愛? 友愛? 親愛? 情愛? そのどれもがしっくりこない。欲に塗れ、時に酷く暴力的で、嵐のようなこの感情に名前をつけるとしたら、一体何と呼べばいいのだろう。
「……おい」
引き攣った顔をした南泉が、わざとらしく一歩後退る。
「お前……なんつー顔してんだよ……にゃ」
「ふふ、」
緩みきった頬を引き締めんと、口元を手で覆った、次の瞬間。
パンッ! パァン!
「なんだ!?」
「……っ銃声か!」
反射的に長義と南泉は窓から距離を取り、執務机の下へ身を隠した。
「兄貴! ご無事ですか!」
ドタドタと慌ただしい足音を立てて、部下たちが部屋へ入ってくる。
「何が起きた!」
「兄貴に客が来てたんですが、突然どっからか襲撃されて、そいつが撃たれちまって……っ」
部下の一人が扉の横にあるリモコンを操作し、窓辺に備え付けられたブラインドを下ろす。完全に外界と遮断されたことを確認してから、長義たちは執務机の下から這い出た。状況を確認するため、警戒しつつ前を行く部下の後をついて歩く。
「客だと? 一体だ、れ……」
血濡れになったエントランスホールの真ん中で、倒れ伏す男たち。その中で一際目立つ、赤に塗れながらも鮮やかな輝きを放つ、金糸雀の色。
「……くにひろ?」
頭が、真っ白になる。
それは、長義と血を分けた兄弟なのだという男――国広だった。
「国広!」
「来るな!」
「っ!」
語気強めに制止され、足を止める。
「来るな! 山姥切! ……ぐ、ァ……ッ」
「おい! 何突っ立ってやがる! さっさとそいつをこっちに運べ! そこの奴は運ぶ間チャカぶっ放して威嚇しろ! 腰抜かしてる暇はねェぞ! 山姥切、テメェはそっから一歩も動くんじゃねぇぞ。動いたら殺すからにゃ!」
血と硝煙の匂いが纏わりついてくる。
銃声と怒鳴り声の行き交う修羅場で、長義の自慢の頭脳は完全に役目を放棄していた。クソ、こんなの何度も経験しただろうに。少しあれの撃たれた姿を見た程度で、これほど動揺するとは。
心臓が嫌なリズムで鼓動を繰り返す。脂汗が止まらない。あれは何処を撃たれたんだ。内腿か、首か、頭か。太い血管の通っている場所なら、掠っただけでアウトだ。まさか致命傷を負ってはいないだろうな。もし、もしだ。万が一、あれが死んだら……いや、今はそんなことを考えている暇はない。己の頭を殴ってでも無理矢理思考を働かせろ。早く、早く、早く!
「俺だ、んにゃ、……始まりやがった。多分村松ビルだ……にゃ。ぜってぇ逃すんじゃねぇぞ」
国広や撃たれた部下たちを安全な場所へ運んでから、南泉が何処かへ電話する。口調からいって、通話相手は遠征する時に連れてきた一文字の部下だろう。南泉は通話を切ると、運ばれてきた国広の顔を不躾に見やり、ほぅ、と感心したような声を出した。
「やっぱ似てんな」
この非常時に何を呑気なことを。長義は南泉を思い切り睨みつける。
「……何処を撃たれた」
汗で肌にへばりつく金髪を、そっと指先で払ってやった。大量に血を失ったからか、国広の顔色は真っ青になってしまっている。とにかく早く止血をしなくては。部下に救急セットを持ってこさせ、中に入っていた太めの縄で右腿をきつく縛り上げていく。
「痛むだろうが我慢しろよ」
「ぅっ……右足を、掠っただけだ。血の量の割に怪我自体は酷くない」
「いいから動くな」
「そうだ……ッ……山姥切、幹島さんが……!」
必死な形相で「幹島さんが、」と何事かを伝えようとする国広の目を、長義は見ることが出来なかった。処置に集中しているふりをして、それとなく彼から視線を逸らす。人を騙したり、利用したりと、目的のためなら手段を選ばず散々汚いこともやってきた。今更罪悪感なんて感じてどうすると、頭の冷静な部分は己の無様を嘲笑している。それでも、長義の胸は痛んだ。こんな気持ちの悪い感情は初めてだった。
「幹島さんが、生きてて……あの人、チャイナと……!」
「……国広」
「光忠派の奴らとも繋がってる。あんたのことを殺すつもりで……だから、俺……っ!」
「俺が、お前を囮に使っていたと言ったら、どうする?」
はく、という空気の漏れる音が聞こえた。声になる前に潰えた、無意味な吐息。
「囮……?」
大きく目を見開き、こちらを見る男。今度こそ、長義はその真夏に青々と茂る若葉のような、翡翠色の瞳を映した。
「あぁ……なんだ、そういうこと……か」
聡い男は早々に長義に利用されていたことに気づいたらしい。諦めたように呟く彼の声が、心臓に深く突き刺さる。
「そうか……はは、やっぱあんた……性格悪い、な……」
堪らず目の前の肢体を抱き締めた。離せ、とこちらを拒絶する声に、力はない。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、泣けないでいる男の姿が、あまりに痛々しくて。青年を囲い込むように回された腕の力が、段々と強くなっていった。
「……離してくれ」
「やだ」
「知ってたんだな、全部。幹島さんのことも……なら俺の役割はもう終わったんだろう?」
「……嫌だ」
「……これ以上、俺を惨めにしないでくれ」
青を通り越して白くなっている指先が、トン、と長義の肩を押す。強く唇を噛み締めた。口の中に血の味が広がり、鉄臭い匂いが鼻を刺す。離してやることなど、到底出来そうもなかった。それがどんなに彼を傷つけるとわかっていても。
事態は着々と収束へ向かっている。南泉の指示で動いた一文字の部下たちが、近場のビルに潜んでいた狙撃手を見つけた。速やかにその身柄を拘束した一文字の者たちは、当初の目的であった幹島の居所を吐かせるため、この後すぐにそいつを含めた何人かのチャイナ共を、堀川の巣穴へ引き摺り込むのだという。また、活躍しているのは一文字だけではない。長義の部下たちも、このままやられっぱなしでは面子に関わると、躍起になってあちこちに尸の山を築き上げていった。中でも生け捕りにされた者たちは、このまま長船の本部へと連行し、惨い尋問にかける予定である。
今回の騒ぎを引き起こしたバカ共には、落とし前をきっちりつけさせなければ。そのためにも、チャイナ側の首謀者と身内の裏切り者について、奴らから徹底的に情報を搾り取ってやる所存である。殺しはしない。死んだ方がマシだというほどの苦痛を与えるまで、そう簡単に殺してなるものか。虚空を睨む長義の瞳に、ドロリとした殺意が浮かんだ。
「おい、山姥切。そろそろ離してやれや、にゃ」
「……」
あれやこれや考えねばならないことから目を逸らし、長義はひたすらに国広を抱き続ける。
「マジで死にそうだぞ。医者呼んでやったから、とにかく落ち着けるとこに連れて行ってやれ……にゃ」
「……言われなくてもわかってる」
そっと、真綿に包むように優しく国広を抱き上げてやれば、南泉から呆れた視線が飛んできた。周りにいた部下たちも、ギョッと目を剥いてこちらを見ている。そんな周囲の反応には無視をして、長義は己の執務室へと歩を進めた。ヤクザの事務所にふかふかのベッドなんて気の利いたものがある筈もなく。だが執務室のソファなら、このまま硬い床の上に横たえておくより遥かにマシだろう、という判断の上での行動だった。
「……すまない」
腕の中の国広は気絶していた。銃弾は掠めただけでも肉体にかなりのダメージを負う。血を失っているだけではなく発熱もしている彼の身体は、燃えるように熱かった。一刻も早く医者に見せてやりたいが、あと数十分は難しいかも知れない。窓外の喧騒を思いながら、不安に押し潰されそうな己の胸を掻き毟る。
「山姥切、医者が来たぞ」
やけに長く感じる時間を過ごすこと、数十分。ようやく到着した闇医者を連れた南泉が、部屋に顔を覗かせた。最後までついていてやりたかったが、長義の立場上そういうわけにもいかず。渋々後のことは医者に任せ、二人は後処理について話し合う。
「……幹島は」
「逃げ回ってたところを日光の兄貴が捕まえたってよ」
「日光? あの日光一文字まで噛んでいたのか?」
日光一文字。一文字一家の長である山鳥毛の左腕と言われている参謀だ。長義と同じく頭脳派で堅実かつ確実な戦略を好み、相手を精神的にも肉体的にも徹底的に追い込んでゆく、容赦のない手段を使ってくることで知られている。あまり敵には回したくない男だ。
(そんな大物まで動いていたとは)
長義は顔には出さず驚いた。
「らしいぜ。俺も兄貴がこっちに来てるって聞いたのは三日ぐらい前だ、にゃ。突然電話してきたかと思えば、『そろそろチャイナがカチコミに来そうだから、見張りの人数増やしとけ』なんて言われて……マジでビビッたっての」
「人のシマで勝手なことを……」
「ここ最近ぶったるんでやがったテメェにゃ、何も知らせなくても支障はねぇって思われてたってことだろ……にゃ」
この言い草にはさしもの長義もかなりイラッとくる。誰がぶったるんでるって? 苛立ちに任せて足を踏みつけてやろうとしてやめた。舌戦ならこの男に負けない自信がある。実力行使でも負けるつもりは毛頭無いが。
「へぇ……チンピラ崩れの小物が随分と大口を叩くじゃないか」
「だぁれがチンピラ崩れだとォ? もういっぺん言ってみろやゴルァ!」
「何度でも言ってやるよコンビニ前のヤンキー」
「にゃぁ!? このインテリ気取りの脳筋ヤクザが!」
低レベル極まりない応酬が続き、やがて沈黙が降りる。幾分か発散したおかげか、靄が晴れたように頭が冷えた。
「で、落ち着いたかよ」
礼など言ってやるものか。無言を貫いていれば、何気ない世間話でもするように南泉が言う。
「幹島の野郎がよ、捕まる前に『話が違う』ってチャイナの奴らにキレてたらしいんだわ」
「ふぅん」
「他にも『あの子には手を出さない約束だった』だの『見逃してくれるって言った』だのとぐだぐだ言ってたんだと」
その話だけで、今回起きた事件の全容を大体理解する。幹島の言っていた「あの子」というのは国広のことだろう。闇市場に商品登録したはいいものの、途中で惜しくなったのか、それとも違う利用価値を見つけて出し渋ったのか。そこはわからない。ただ、幹島は国広を逃がそうとして、長船を裏切りチャイナについた。そしてチャイナは、そんな幹島を利用して長船の内部分裂を狙っていた。弱体化したところを一気に畳みかけるために。
「あの野郎、堀川の三男坊に本気で惚れてたりして」
「だったら何だと言うんだ?」
幹島が国広に惚れていようと何だろうと、そんなものは一切関係ない。奴はもう二度と、国広の前に姿を見せることはないのだから。
執務室の扉が開き、治療を終えた医者が遠慮がちに出てくる。出血量が多かったものの、適切な応急手当が行われたことが功を奏して、幸いにも後遺症などの心配は要らないとのことだった。銃弾の掠めた右腿の火傷痕は残る可能性があるそうだが、そんな傷の有無など長義はまったく気にしない。寧ろ情事の時に敢えて愛撫してやるのも良いかも、なんて考えている時点で末期だった。
「国広、」
砂糖を煮詰めたような甘ったるい声で、名前を呼ぶ。
そういえば、国広との間に交わした誓約を破ってしまった。絶対に彼について詮索しないと誓ったのに……そこまで考えて、長義は気づく。国広はきっと、長義と出会ったその日には、薄々自分たちの関係について察しがついていた。だからこそ、あのような誓約を持ち出してきたに違いない。そのことにも気づかず、暢気にも彼に夢中になっていた己を思い返して苦笑する。これは、ぶったるんでると言われても仕方がない。
「……」
金糸雀色の髪を梳いた。さらりとした手触りが心地いい。こびりついていた血は綺麗に拭われていて、透けるような白い肌が目に眩しかった。
(このまま組み敷いて、身体を開いてやりたい)
血を分けた弟へ向けるべきではない、凶暴な衝動を抑え込む。近親相姦? 同性愛? 倫理観などとっくの昔に捨て去った。そもそもこんな日陰に生きる身だ。今更常識人ぶったところで、何処かしらぶっ壊れているに決まっている。ならば罪悪感も背徳感も、そんな見せかけの人間性なんてものは、取り繕うだけ全部無駄でしかない。
目を覚ましたらどうしてやろうか、なんて考えながら、長義は国広の眠るソファの前に座り込んだ。ブラインドの隙間から差し込む夕陽が、国広の寝顔を照らす。舞い上がる塵芥が光輪の中で踊り、深海のマリンスノウのように淡い輝きを放つのを、ただぼんやりと眺めた。
(早く、目を覚ませ)
触れるだけのキスをして、やたらと重みのある彼の手を掬い取る。ちゃんと息をしていて、脈がある。彼の生を肌で感じて、それだけでどうしようもなく胸が高鳴った。
「……はやく」
もう一度長義が国広へ口づけようとしたところで、南泉は静かに部屋から出て行った。
ぱたん。
扉の閉まる音が響く。
途端に静かになった執務室で、微かに漏れ聞こえる国広の寝息に、長義もまた誘われるように目を閉じた。眠りに落ちる時の感覚は、死ぬ瞬間のそれに似ているのだという。昔から長義は、この深淵に落ちていくような、泥の中に引き摺り込まれるような感覚が、どうにも好きになれなかった。しかし何となく今日のそれは、そこまで疎ましく思わない。
ずるり、ずるりと、意識が沈んでゆく。
どこか満たされた気持ちになりながら、長義はついに眠りに落ちた。
それは十数年ぶりに得た、欠伸が出るほど退屈で平穏な、深い眠りだった。