透明なガラス細工で出来た盃が、そこに在るとする。
その盃がなみなみと愛で満たされた時、器は何色に見えるか?
そんなことを時折、考える。
「ん……ぅ……?」
血のように鮮やかな深紅か。それとも、海の色を閉じ込めたコバルトブルーか。春に咲き乱れる花々の如く、淡い色彩なんてこともあるかも知れない。何にせよ幼い頃の国広は、愛で満ち満ちた盃は宝石のように輝いて、美しくて、温かくて……器の中身を一雫でも口に含めば、それはそれは甘いに違いない、と。そんなことを思っていた。
「……ここ、は?」
つるりと滑るシルクのシーツが、なめらかに肌を撫でる。長い時間眠っていたのか。己の体温の移った寝台は暖かく、未だ夢現の狭間にいる国広の意識を、再び奥深くへ沈めようとしてきた。
徐々にはっきりとしてきた思考のまま、周囲を見回す。
(病院か……? いや、どうにも勝手が違いそうだな……)
少しだけ開けられた窓辺で揺れる、紺色の遮光カーテン。サイドテーブルの上には水の入った風呂桶と、替えのタオルが置かれている。開封済みの飲み薬のパッケージが放置されているあたり、ついさっきまで自分を介抱していたのであろう、第三者の気配を色濃く感じた。一体誰がここまで面倒を見てくれたのか。
(足を撃たれて、それから……)
意識を失うまでの記憶がゆっくりと形を成してゆく。
あの日国広は、幹島と裏で繋がっているチャイナたちが長義の命を狙っていることを知り、慌てて彼のスマホに電話を掛けたのだった。しかし何度掛けても無機質な不在アナウンスが流れるばかりで、一向に繋がる様子はなく……。かといって、こうしている間にも彼の身に何か起きているかも知れないと思えば、居ても立っても居られなくなり、衝動のままに家を飛び出した。奴らが動き出すとしたら長船幹部の大西が殺されて、末端が騒ついている今しかないと直感したからだ。そして案の定、その予想は見事に当たって、長義の事務所へ到着し気を緩めたところを、奴らに襲撃されたというわけだ。
『国広!』
国広が撃たれたと知った長義の、焦った声を思い出す。
(てことは、ここは長義の……?)
それはないか。降って沸いた期待をすぐさま切り捨てる。ここは見るからにプライベートな誰かの私室だ。あの男がそう易々と、他人を自分のテリトリーへ入れるようなタチではないということを、国広はよく知っている。それに、長義は幹島を誘き寄せるための囮として国広を利用していただけだった。最早用済みとなった自分をわざわざ気にかける理由など、もうあの男にありはしない。
(だとしたら他に誰が……いや、もう誰でもいいか)
己の身を案じてくれる家族など元よりいない。兄のように慕っていた幹島は、国広のことを人身売買の商品としか見ていなかった。小田原に残してきた兄弟たちは多少気にしてくれるかも知れないが、それでも彼らと国広は既に縁を切った身。これ以上堀川の家に迷惑を掛けることは許されない。
「はぁ……」
ぐったりと身体の力を抜いて、やたらと柔らかいベッドマットレスに全体重を預けた。ここが敵地だろうと何だろうと、もう、どうでもいい。魂の抜けた抜け殻のように、国広はただそこに在った。そこに《在る》だけだった。腫れ物に触るかの如く扱われ、屋敷の片隅でひっそりと息をしていたあの頃のように。
がちゃり。
部屋の扉が開かれる。視線をやることもしなかった。ぼうっとシミ一つない小綺麗な天井を見上げて、これからのことについて考える。拘束されていないということは、こちらに悪意は無いということか、それともただ単に抵抗出来ないものだとナメられているのか。己の容姿が他人の目にはそれなりに魅力的に映っているのは自覚している。また、金髪碧眼という生来の毛色を、一部の者たちが特に好んでいることも。良くてコレクター気質の変態野郎に置物よろしく軟禁されるか、それとも物好き共の慰み者か。
何にせよ痛いのはやめて欲しいと思った。かなり無茶をやってきた国広であるが、それでも痛いものは嫌いだ。それ以外ならもう……どうでもいい。
(あっけないもんだ)
昔はあんなに空を恋しいと思っていたのに、今ややっとの思いで得た限られた自由さえも手放そうとしている。ふっ、と苦笑が漏れた。何が自由だ。結局国広は普通の人間のようには生きられない。せいぜい溝鼠の這い回る路地裏で、薄汚れた襤褸布でも被りながら野垂れ死ぬのがお似合いなのだ。
ギシリ。
寝台が揺れた。無駄にデカいそれの上に、自分以外の体重が乗っていると思うとゾッとする。されど特に何か抵抗しようという気は生まれなかった。無意識のうちに強張ってしまっていた身体に、鈍痛が響く。理由など考えるまでもない。前に撃たれた右足の痛みだ。
「……っ」
そういえば大袈裟に包帯が巻かれ手当てがされていたのだったか。こんな生きてるのだか死んでるのだかよく分からない奴相手に、ご苦労なことである。そして、人としての理性が残っている今のうちに、せめて自分の飼い主となる奴の顔だけでも拝んでおくか、なんて視線を彷徨かせた時だった。
「気に入らないね」
ドキリと心臓が跳ねる。
聞き覚えのある声が、鼓膜を震わせた。そんな、まさか。咄嗟に声のした方へ顔を向けようとするのと、声の主が自ら視界に飛び込んでくるのはほぼ同時だった。
「なんだいその目は」
底の見えない深い瑠璃色と目が合う。光のない、ガラス玉のような目。つまらない人形に成り下がったのかと、それは言外に国広を責め立ててくる。まるで抜き身の刃を首筋にあてがわれているような心地だった。視線で殺すとはこのことを言うのだろう。恐ろしくて、でも美しくて、唖然と見つめ返すしか出来なかった。
「……長義」
ぽつりと漏らされる、己に覆い被さる男の名前。すっかり口に馴染んでしまった、腹違いの兄の名だ。
「……何を、怒ってるんだ?」
問うた瞬間、男の片眉が吊り上がる。
「怒る? 俺が? どうして?」
「え、と……」
「それはお前の方だろう」
はっきりと言い切られて言葉に詰まった。怒る? 何故国広が長義に怒らなければならないのか。言われている意味が理解出来なくて、どう答えたらいいのか言葉に迷った。一方長義は、そんな顕著に動揺を露わにした国広の様子が気に入らなかったのか。ますますその美麗な顔を険しく歪めて、固い声で言い募る。
「堀川の家では厄介者扱いで軟禁されるわ、親しくしていた男には商品として売られかけるわ、ようやく再会した実の兄には利用されるわ……寧ろ何故怒らない? 理不尽を嘆かない? 何簡単に諦めてるんだよ……っ」
「は、え……?」
「普通ここは、俺に怒り狂って殴りかかってくるところだろうが!」
目の前の男が何を言いたいのか本気でわからない。確かに長義から国広のことを囮にしていたと告げられた時、少しの憤りと落胆を感じはした。したけれど、それ以上のことは特に何も思わなかったのだ。合理主義なこの男のこと。自分に近づいてきたのは何かしらこの男にとってメリットがあるのだろうと、漠然と察していたからというのもある。
――というか、そもそもの話だ。
「あんた、俺のこと……知って……」
どうして今まで気がつかなかったのか。長義からの呼び名が、いつしか国広の本名となっていたことに。あれだけ釘を刺しておいたにもかかわらず、よもや国広が堀川の家でどんな扱いをされてきたのかすら知られているだなんて。
知らず国広の長義を見る目が、咎めるようなそれになる。
「言っておくが、俺から調べたわけじゃないからな」
「なら、なんで……」
「猫殺しくんがわざわざ教えてくれたんだよ。堀川の三男坊のことを、それはもう詳しくね」
猫殺しくん、というのが誰のことを言っているのか皆目見当もつかないが。それでも堀川の内情を良く知る誰かが、この男に余計なことを吹き込んだのだということはわかる。そして聡明な若頭様のことだ。少しの情報からでもすぐさま国広の正体に行き着いたことであろう。つくづく一を聞いて十を知る男の有能さが嫌になった。
「……あんた、何がしたいんだ」
胸が苦しい。叶うなら、知られたくなかった。何も知らないまま、素知らぬ顔で曖昧な関係のままでいたかった。
「もう用は済んだんだろ。手当てしてくれたことには礼を言う。だが、……もう放っておいてくれ」
長義と出会った最初の頃は、好き勝手に己を振り回すこの男に苛立つことも多かった。でも次第に彼のことを知るにつれ、そんな忙しなくも温かい時間も悪くないと思い始めて……。一方的にではあるものの、長義が自分の兄だと知っていたということもあり、いつしか彼に対して親愛のようなものを向けるようになっていた。
初めて何かしらの情を傾ける存在と出逢えたことに、浮き足立っていたのだと思う。自分はまだ、誰かを愛せる。愛を知っている、と。愚かなことにただそれだけの理由で、まるで己がマトモな何かになれたような錯覚を覚えていたのだ。人の本質など、そう簡単に変わるわけもないのに。
(ようやく俺も……普通の何かに、なれた気がしたんだがな……)
長義に囮として利用されていたことについて、思うところは多々ある。しかし、だからといって大きくショックを受けたわけじゃない。あぁ、やっぱりこうなるのかと、怒りより先に諦念が生まれただけだ。幸い、諦めることには慣れている。裏切られることにも。だから、今さら自分から人が離れていったからといって、傷つくようなことはなかった。
執着を知らぬまま大人になった、子どもの成れの果てがこのザマだ。まるで人形のようだろう? 笑い飛ばしてしまいたいのに、上手く笑えない。あぁ本当に、なんてくだらない。
「俺を殺してやるってくらい恨めばいい」
「え……?」
「……いっそ憎まれた方がマシだ。そんなにあっさり切り捨てられるくらいならば」
きょとり。
間の抜けた顔を晒して、長義を見上げる。どうしてか、国広より長義の方が苦しげな表情をしていた。
「怒って、泣いて、みっともないところを晒しながら、俺に縋ってみろよ。そうしたら、いくらでもお前を抱き締めて、うんざりするくらい甘やかして、慰めてやるから」
「……」
「俺を、……諦めるな」
身体が自然と動いた。
人工的な光を反射して煌めく銀の髪を、くしゃりと梳く。それから後頭部に回した掌をぐっとこちらへ引き寄せた。呆気に取られた顔をして、されるがまま近づいてくる男の顔に、くすり、と笑いが漏れる。普段憎まれ口を叩いている時の男は憎たらしい以外何者でもないが、こういう時の幼さを感じられる顔は、純粋に好ましい。薄く開かれた唇へ食らいつき、柔らかい肉感を楽しむ。はむはむ、と甘噛みを繰り返せば、僅かに男の唇が震えた。その反応に気を良くして、さらに角度を変えて上唇を深く咥え込む。
深くはない子供だましのバードキス。だが軽く触れ合うだけのそれは、今までしたどの口づけよりも官能的で、腰のあたりを甘く疼かせた。
「……は、なんで、」
ぷは、とてらてらと光る唇を解放してやると、いつになく狼狽えた男が問うてくる。
「魔が差した」
「はぁ?」
「つい、な」
「お前――」
その先に続くであろう言葉を聞くこともなく、またキスを仕掛けた。
この、どうしようもなく触れたくて堪らなくて、もどかしい気持ちになる激情の正体は、なんだ。乱した息の狭間で考える。何がここまで己を突き動かしているのかわからない。ただ、長義を見てるとやたらと腹が空いて、衝動的に口づけていた。
「ん、……はっ、ぁ……」
愛しいというのは、こういうことを言うのかも知れない。
茹だりきった思考回路が、ぼんやりと答えを弾き出してゆく。そうだ、きっと国広はいつの間にか、この男のことを愛していたのだ。一度理解してしまえば簡単な話であった。
友愛でも、親愛でもない。ただの情愛。一人の男に向けられたどうしようもないくらいに膨れ上がったそれは、既に手遅れなところまできていて、後戻りなんてさせてくれやしない。自分でも知らない間に植え付けられた種は、着々と奥深くまで根を張り、芽を出し、雁字搦めに心に絡み付いて離れなくなってしまった。まるで元からそれが在るべき形であったかの如く、それは当然のような顔をして今も尚心に居座り続けている。
これは、芽吹いた時点で気づけなかった己の落ち度だ。
「……なぁ、」
くちゅり。
口を離すと二人の間に銀の糸が繋がる。やたらと響く水音が卑猥だった。
「……なに」
「この先、どうしたらいい?」
「は?」
触りたい、触られたい。もっと近くにいきたい。でも、今までこんなことを思ったことがなかったから、これ以上何をすれば良いかわからない。
「まだ、足りない」
「はー……クソッ……」
深くため息を吐かれ、肩が震える。何か男に呆れられるようなことをしてしまったのだろうか。このまま突き放されて終わるのではないかと、一抹の不安が過ぎる。
「あー、違う。違うから、」
ちゅ、ちゅ。
どうやら不安に思っていることが顔に出てしまっていたらしい。慌てて長義は言い直して、宥めるためのキスを顔中に降らせてきた。先ほど彼が言っていたように、ドロドロに甘やかすための触れ合いは、何とも擽ったく。病みつきになりそうなほど心地良い。
「もっと……」
「お前ね、ほんといい加減にしろよ」
我慢しているこちらの身にもなれ。
そう続けながら、徐に長義の左手が国広の右手を掴む。そのまま彼は掴んだ手を自らの股間へと導いて、スラックスの上からそっと触れさせた。何度か触れたことのあるそれは、すっかり固く兆しており、布の中で窮屈そうに首をもたげている。
「ん、……このまま犯されたくなかったら、余計なことは言うな」
「ぁ、うん……」
「ったく、怪我人相手に盛るなんて品のない……こんな筈では……ッぅ、」
あまりにも苦しそうにしていたので、そっと慰めるように頭を撫でてやった。そして下から上へ、吐精を促すかの如く丁寧に裏筋を撫で上げてゆく。淫猥な指先の動きに、長義の腰が跳ね上がる。血が出るんじゃないかというくらいに噛み締められた薄い唇から、熱の籠もった吐息が漏れ、さらにはグッと眉根を寄せて刺激に耐える雄の顔が、国広の欲を一層煽った。
長義が突然の刺激に身悶えている間に、国広は右足に負担を掛けぬよう気をつけながら、上体を起こしてゆく。こちらを睨みつける瑠璃玉を焦らすように、どこまでも挑発的に見つめ返し、そして最後は壮絶なまでに美しく笑ってみせた。
ごくり。
雄の、喉が鳴る。
「は、……長義」
「く、そ……やめ、っ」
「これ、舐めていいか?」
「な、はぁ!?」
「舐めたい」
トン、と軽く肩を押すと、思いがけずあっさりと長義は後ろへ倒れた。さっきまでとは真逆の体勢となった二人は、暫しの間互いを見つめ合い、やがてゆっくりと動き出す。答えを聞くまでもなく、国広はスラックスに纏わりついたままのベルトを抜き去った。それから先走りのせいで、すっかり色を変えてしまっているそこを寛げ、長義が驚きのあまり固まっているのをいいことに、するすると下を脱がせてゆく。
「あ、む……ン、」
躊躇いなんてなかった。ただ単に、咥えたいと思ったから咥えた。それだけだ。
「おい! 国広!」
「ん……なん、あ?」
吐息を多分に含む声色に、背がゾクゾクと粟立つ。
「そこで喋るな! クソッ……お前なんだってそんな手慣れてるんだよ! まさか他の男のも咥えたことがあるとか言わないだろうな!?」
「ら、い……あんらが、はいえ、て……」
――ない……あんたが、初めて。
「……っ! あー、クソッ!」
舌っ足らずなその言葉の意味を理解した長義は、突然頭を抱えてクソクソと口汚く吐き捨てだした。何をやってるのか本気で意味がわからない。まぁいいか、と目の前の剛直を可愛がることに専念していれば、不意にくしゃり、と己の髪を掻き乱す手の存在に気づいた。やたらと熱いそれは頸のあたりを撫で摩ったかと思えば、耳たぶを弄ったり、前髪を払ったりと戯れにあちこち動き回っている。
「……?」
何となく、国広は視線だけ上に向けた。上を見て、すぐに後悔した。
「……ッぐ、」
頬を紅潮させ、目を瞑り、悦に浸る獣の姿がそこにある。その色香にあてられて、じわりと己の下着が濡れる感触が広がった。軽く吐精したのだ。何も直接的な刺激を受けていない、ただ男の顔を見ただけにもかかわらず、女のようにイッてしまった。羞恥からカァッと顔が熱くなり、頭が真っ白になる。
心臓がうるさい。
ドクドクと脈打つ鼓動の音が、身体中に響き渡る。何かが、おかしい。いつもよりも神経が鋭敏に感覚を拾い上げている。感度が二倍、いや十倍になっているみたいだ。長義の触れた場所は火傷でも負ったかのように熱く火照っているし、少しの水音も拡声器でも通したのではないかと錯覚するほど、頭の内側にガンガン響く。やはり眠っている間に、何か妙な薬でも飲まされたのではないか。
そんな考えが脳裏を掠めると同時に、それまで国広の髪を撫でるだけだった長義の手に、容赦なく力が込められた。
「ッ口がお留守になってるよ」
「う、ぐ!?」
不意打ちに喉奥を突かれ、咽せそうになる。ぐぷ、ぐぷ、と抜き差しされるそれが徐々に質量を増し、雄の匂いが濃くなってきた。
「は、ぁ……く、そ……締まる……っ」
「ん、ぐ……っ、うう、」
呼吸ができない。酸素が薄まり、意識がおぼろげになる。生理的に溢れた涙で、視界がぼやけてきた頃、口いっぱいに頬張っていた欲望が大きく脈打った。
「ぐ、……で、るッ」
「ふ、んん……っ、ぐ……ぷは!」
弾ける寸前、ずるり、と口から引き摺り出されてゆくそれ。やっと呼吸が出来るようになったと深く息を吸い込んだ瞬間、生温かい液体が顔中にぶちまけられた。
「は……ッは、」
「え、あ……?」
「ふっ……いい、ザマだな……」
ぼた、ぼた。
肌を伝う白濁を親指で拭い去り、男が艶麗に微笑む。酸欠で回らない頭のままぼんやりと宙を見つめる国広と、そんな彼にうっとりと見惚れる長義。部屋に立ち込める青臭い匂いが、嫌というほど情欲を掻き立てる。
賢者タイム? なんだそれは。そんなインターバルを取る余裕なんてない。だって本能が、足りないと叫んでいる。もっと、もっと、と貪欲に相手を喰らい尽くしたくて仕方がない。壮絶な飢餓感が国広を襲った。腹が空いている。さっきからずっと、満たされることを知らずに、己の中の獣が涎を滴らせて眼前の獲物に唸りを上げている。
「顔射したのは初めてだけど、なかなかの絶景だ」
「はぁ、……へ、ぁ……?」
「あぁ、軽く飛んでしまったかな? 咥えながら感じていたようだし……お前、やっぱり才能あるよ」
その怪我さえなければ、最後まで喰らってやったのに。
しっとりと頬を撫でられ、目を細める。少しだけ冷たくなった掌の温度が気持ちいい。不埒な動きをする男の指先が、ついに国広のスラックスにかかる。ベルトが抜かれ、前を寛げられ、下着ごと脱がされる。先ほど国広が男相手にしてみせた動きをなぞるように、そいつは器用に服を脱がせていった。
「……最後まではしない」
「……あぁ」
「だから、それ以外の気持ちいいこと……しようか」
腰を抱かれ、長義の腹の上に跨がるような姿勢で座らされる。ちょうど互いの欲が触れ合うような際どい位置どりだ。遮るものなど何もない下半身同士を密着させ、昂った二人分の欲をぴとりと合わせる行為は、何とも形容し難い背徳に苛まれる。
「長義? なに、を……」
「兜合わせって知ってる?」
「かぶ、と……?」
「ふふ、いいね……教え甲斐がありそうだ」
「え、んアッ!?」
「はぁ……っ、いい声」
二人分の竿を一気に擦り上げられた。衝撃で嬌声が口から漏れる。たっぷり指先に絡ませた白濁と先走りが、ぬるぬると敏感なところを滑ってゆく。また、カリ首のあたりをズポズポと泡立つくらいに指の輪で激しく抜き差しされ、さらには一度イッたことで鋭敏となっている先端を押し潰されれば、ひとたまりもなかった。
「ああ、ちょ、ぎ……ッむり、あ、は……もッむり、!」
必死に頭を横に振る。だが逃げようと腰を引くと、向かい合わせとなった長義の逸物と擦れて、裏筋が刺激された。もう、限界だ。ずっと垂れ流し状態の下半身は馬鹿になっているし、気持ち良すぎて頭がおかしくなりそうだ。このままでは、あらゆる意味で壊れてしまう。
「ッ……もう、降参かい? ……ふ、かわいい」
「ん、きもち、い……っああ!」
思考がスパークする。星が瞬き、視界が白く染まる。何も考えられない。
「ぅ……、」
びゅるる! と、勢いよく飛沫が上がったのを感じた。わざわざ下を見なくとも、吐精したのだとわかる。
「む、」
「ん……ッぅ!」
絶頂を迎えると共に、どちらからともなく口づけた。舌を絡め、吐息すら奪う激しいキス。身体が熱くて、熱くて、されど唇は離さぬままそれまで着ていたシャツを脱がせ合って、やがて生まれたままの姿になる。直接肌を重ねる感触に安心感を覚えた。愛おしくて、欲しくて、一つになりたくて、ぎゅうっと強く抱き締める。
「ちょ、……ぎ……」
「……ん?」
「いッ……!」
首筋に噛みつかれる。血が出たかも知れない。そう心配になるくらいには強く噛まれた。
「くにひろ……」
とろん、と蕩けた瑠璃の瞳には、恍惚が浮かんでいる。初めて見た色だった。国広のことが愛しくて仕方ないと言わんばかりのそれ。この男を愛しているとそう思った時には既に言葉が飛び出した後だった。
「す、き……」
長義の目が見開かれる。
瞳孔がかっ開き、きゅうっと小さく収縮する様が、やたらとゆっくりに映った。
「なぁ、あんた、は……?」
「……」
声が、詰まる。本当にこんなことを問うていいのか、急に不安になってきた。己を心から愛してくれた存在など、今までいなかったから。
「あんたは、どうなんだ?」
は、は、と短く繰り返される獣のような息遣いが、静まり返った部屋に木霊する。時を刻む秒針の足音が、二人の間の張り詰めた空気に波紋を広げた。それからもう何十回針の進む音を聞いたことだろう。やけに長く感じる沈黙の末に、しかし長義からの返事はない。やはり、同じくらいの想いを返してもらうのは無理な話だったのだろうか……。
国広の顔が俯けられようとした、その時だ。
「……一〇〇年後」
「な、に?」
「一〇〇年後、地獄に逝ったら言ってやる」
ぐっと、腰を掴む長義の手の力が、急に強くなる。
「……お前だけ天国に逝けると思うなよ」
あまりにも不器用な、将来を誓う言ノ葉。
それは紛れもなく、この男なりの告白に違いなくて、
「……っ」
涙が、零れた。
何で泣いてしまったのか、自分でもよくわからない。悲しかったわけでも、辛かったわけでもなかった。にもかかわらず、次から次へと止めどなく涙が溢れてくる。
「ふっ……? う、」
「本当、世話の焼ける……」
ぐちゃぐちゃになったシーツを引き剥がして、長義が雑に涙を拭ってきた。床で丸まっている服は汗だか何だか知らない体液で汚れてしまっていて、とてもじゃないがもう一度着る気は起きない。そうこうしている間にも、長義はむっつりとした顔でぐいぐいシーツを押しつけてくる。……仮にも今愛を誓い合った間柄のくせに、この慰め方は無いのではなかろうか。
「はは、」
力任せにあてがわれた布は、やたらと肌触り良い純度一〇〇パーセントのシルクで。それがまた笑えた。思わず噴き出してしまえば、目の前の男も呆れたように笑い出す。
「笑うんだか泣くんだかどっちかにしてくれないかな?」
「いや……俺も笑いたいのか泣きたいのかわからないんだ」
「なんだ、それ」
透明なガラス細工で出来た盃が、そこに在るとする。
その盃がなみなみと愛で満たされた時、器は何色に見えるか?
時折、考える。
「お前ね、今の俺たちの絵面を考えてみろよ。途轍もなく間抜けだろうが」
「ふっ、はは……確かにな!」
あの頃はきっと、一生盃が満たされることなんてないのだと思っていた。満たされることも、満たすことも、生涯ありえないのだと。でも、そんなことはないんだって、この男が教えてくれた。誰かを愛して、愛されることの幸せを知った。うれし涙なんて初めて流した。
盃の色が何色かは、今はまだわからないけれど。そのうちわかる日はきっとくる。そんな気がする。
「長義、」
「ん?」
「一〇〇年後、楽しみにしとく」
「……ふんっ。生意気」
汗と涙に塗れたシーツに二人一緒に包まって、馬鹿みたいに笑い合う。
薄汚い路地裏にだって日が差すこともある。傷だらけのポリバケツにもたれ掛かりながら、ちらちらと雑居ビルの隙間から揺れる木漏れ日の中、微睡むことだって。
一生分の幸せを掴んだと思った、そんな夜。二人はまた秘めやかに、人知れず唇を重ねた。
(いつか……)
兄弟盃を交わすのもいいかも知れない。五分の兄弟の契りを、いつか。
目を瞑る。愛し、愛され、満ち満ちた無色透明な盃の中身を、一息に飲み干した。
それは想像した通りに甘ったるくて、しかし少しだけ涙の味がした。