*Violent Love

 後日談 盃を交わす日

 粋なジャズが流れる深夜のバーに、見事な金糸雀色と深い葡萄色が並んでいる。
「それで、いい加減堀川の家に帰る気になったか?」
「はぁ……しつこいぞ日光」
 先日の長船関係のデカい案件を片付けてからというもの、国広は妙な輩に絡まれるようになってしまった。
 その男の名は日光一文字。福岡を拠点とする指定暴力団・一文字組の幹部であり、組長である山鳥毛の左腕として日々敏腕を振るう組長補佐官だ。命じられた任務はどんな手を使っても必ず完遂し、尚且つ期待以上の勲を上げて、どれほど五月蠅いクライアントも有無を言わせず黙らせる、なんてその手の筋者たちからは恐れられている男でもある。また、知と武それぞれを兼ね備えたその有能ぶりから、巷では畏怖を込めて『武神賢君の日光』なんて呼ばれているらしいが……。まぁ直接話した感じでは、ただの几帳面な堅物といった印象止まりだ。噂で聞くほどの苛烈さは見られない。
 とはいえ、あくまで外面だけでの判断ではあるので、身内や敵に見せる顔はまったくの別物なのかも知れないけれど。
「あんたも用は済んだんだろ。さっさと福岡でもどこでも勝手に帰れ」
 左手で煙草をふかしつつ、右手でしっしっと邪険にすれば、それでもまったく動じない男は神経質そうに眼鏡のフレームを上げる。
「堀川からの依頼は『三男の山姥切国広を連れてくること』だ。一文字の組長補佐たるもの、手ぶらで帰ることは許されない」
「こうして押し問答している時間が無駄だ。何と言われようと俺は堀川には帰らない。……どうしてもというなら力ずくで連れて行けばいい」
 ぎ、と日光を睨みつける。暫し無言で睨み合い、疲れ切ったため息を吐いた日光が先に沈黙を破った。
「貴殿に手荒な真似をしたら一文字にカチコミをかけると、山伏たちから言われている。誓約を破り堀川との間に無意味な軋轢を生じさせるのは、お頭の望むところではない」
「……はぁ」
 ここにきて何度目のため息か。こう何日も同じような問答を繰り広げていれば、うんざりもする。そもそも、なんだって堀川会が福岡の一文字組に依頼を持ち掛けたのかが謎だ。もっと手近で適任がいたろうに。
(厄介だな)
「今回のことは迷惑をかけたと思っている。『すまなかった、だがもう俺のことは気にしないでいい』と、兄弟たちに伝えておいてくれ。それもダメなら、」
「そうか、わかった」
「?」
 がたり。
 椅子を引き、日光が立ち上がる。ここ数日のこともあり、こんなにあっさり引き下がるとは思わなかったので、国広は素早く身構えた。まさかこんな場所で、実力行使に出るのではあるまいな。
「『兄弟は頑固だから、もし十日説得してみてダメだったらこれを渡しておいて』と、次男の方に言われていてな。今日がその十日目だ」
 ぽい、とテーブルの上に放られたのは、小さく折り畳まれたメモだった。薄く罫線の引かれた白紙は、適当なノートの切れ端のようにも見える。堀川が、これを……? 
「では、俺はそろそろ帰らせてもらう。ここ数日に渡る貴殿の応対のせいで、事務仕事が山のように溜まっているんでな。まったく、十日と言わず五日にするよう交渉していれば、まだマシだったものを……やはりどら猫に交渉事はまだ早かったか……。あぁ、そうだ、」
 ――三男坊には実に頼りになる保護者ができたので、もう心配は要らぬとも伝えておこう。
「な、!」
「では、失礼」
 あれだけ粘りを見せていたくせに、撤退する時は引き波のように素早い男に、肩透かしを食らったような気になる。今までのあれこれは何だったんだ一体。行き場を失った苛立ちをどこにぶつけて良いのかわからず、口に咥えたタバコのフィルターを噛み潰した。
「……誰が保護者だ、誰が」
 長義は、あの一件が終わってから連絡が途絶えた。
 国広の怪我が癒えるまで、頑なに己のマンションの一室から出そうとせず、何をするにも過保護にあれこれ世話を焼いていたくせに。一度外へ放り出したら完全に放置とは。流石に文句の一つも言いたくなるというもの。
(色々と忙しくしているとは聞いてはいるが……)
 目の前に置かれた、飲みかけのマリブサーフへ目をやる。深い青色をした甘いカクテルは、日光の置き土産だ。思えば終始あの男の掌の上で転がされていた気がする。
「ふぅ……」
 塩気の強いミックスナッツを一つ、摘んで。誰かを彷彿とさせるコバルトブルーのカクテルを飲み干した。
「……帰るか」
 尻ポケットに入れっぱなしのスマホを手に取る。時刻を確認すれば午前一時半。随分と長居したものだ。終電なんてとっくに終わっている。ゴソゴソと財布を漁り始めると、勘のいいバーテンダーはスッとこちらに寄ってきて、「お代は既に頂いております」なんて耳打ちしてきた。聞けば日光の奴が店を出る時に払っていったのだと言う。
「……わかった。馳走になった」
「またのご来店をお待ちしております」
 カランカラン。
 扉を潜ればそこは、いつもの見慣れた夜の街が広がっている。店の前で怒鳴り合う酔っ払いの中年たち、獲物を探して彷徨うチンピラ、道端のゴミ箱を漁る野良猫。愛用の黒いキャップを深く被って、ついでに黒マスクの位置を正した。じとりとした梅雨前の風が、悪戯に首筋を撫でてゆく。
「やんのかコラァ!」
「やれやれ!」
「負けんなあんちゃん!」
 ぎゃははは。
 賑やかな喧騒は嫌いじゃない。己の存在を紛れ込ませるには丁度いいから。いつものように気配を消し、繁華街を抜け大通りへ出る。そこで適当にタクシーを拾うと、素早く中へ乗り込んだ。扉を閉めればそこには程よい静寂が佇んでいる。ほう、と息を吐き、目的地はボロアパートの住所から一駅離れた場所を指定した。すると、安っぽい排気音と共に、国広を乗せたそれは動きだす。
 硬いソファに身を任せ、目を瞑る。急激に意識が遠のいた。呼気にアルコールの匂いが混ざり、重くなってきた身体が徐々に弛緩してゆく……。途轍もなく眠い。瞼が重くて仕方ない。深くまで意識が沈み込んでいって、このまま泥のように眠るのだろうと、漠然と察した。その時、
「お客さん、着きましたよ」
「っ!」
 ハッとして窓の外を見れば、そこは紛れもなく己の指示した駅の前だった。
「三千円ぽっきりでいいよ」
「……どうも」
「気をつけてね」
 狐に化かされたみたいだ。
 そこまで長く眠っていた気はしないのに、あっという間に目的地に着いていた。
(酒が回り過ぎたか……)
 ふらふらとした足取りで、ボロアパートの方へ歩きだす。
 何気なく空を見れば、歪に欠けた月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。何処か生ぬるい空気を吸い込んで、酒臭い息を吐き出す。これは夢か、それとも現実か。おぼろげな意識の中、やっとの思いで住み処へ到着し、何度も鍵を取りこぼしながら何とか開錠する。
「はぁー……」
 部屋へ入るや否や、国広はそのまま敷きっぱなしの布団の上へダイブした。今日は疲れた。風呂は明日でいいだろう。もう何もする気が起きない。
「ん……」
 横になればグンッと頭が重くなり、眠気が限界になる。気絶するように眠りに落ちた。
 ブー、ブー。
 それから数分後、床に放り捨てられたスマホのバイブが、突然鳴り始める。しかしそのことに、とうに夢の世界へ旅立った国広が気がつくことはなかった。
 ブー、ブー、ブー。
 うつ伏せに倒れ込んだ青年の身体が、死人のようにピクリともしなくなった頃。ブラックアウトしていた画面がパッと明るくなり、一件の通知を知らせる。
《今から行く》
 一人分の寝息が聞こえる部屋の外側に、静かなエンジン音が聞こえ始めた。
「カシラ、このまま待機でよろしいですか?」
「あぁ、此処で待っていろ……すぐに済む」
 静まり返った深夜三時。チカチカと点滅を繰り返す街灯の下、夜に映える銀髪の男が密やかに降り立つ。男は慣れたようにポケットから針金を取り出すと、二〇二と書かれた部屋の鍵穴へ躊躇いなくそれを突っ込み、鮮やかな手つきで部屋の鍵を開錠した。
「さて、楽しい尋問の時間だ……国広」

 *

 吐き出した息がやけに熱い。風邪でも引いたのか。心なしか遠くで水音も聞こえる。雨が降っているのかも知れない。洗濯物は取り込んでいただろうか。柔らかいシーツを掴もうとして、しかしその掌は何かつるりとした硬いものの上を滑った。これは……なんだ? リモコンか何かか? こんな硬いもの、傍に置いていたっけ。
「は、ぁ」
 全身が火照っている。特に下半身は別の生き物のように怠くて仕方なくて、殆ど感覚がない。それに、何だろう……違和感を覚える。何かが挟まっているような、埋められているような、そんな――。
「え、アッ……!?」
 ゴリッと内側のあらぬ場所を抉られて、声が漏れた。悲鳴に近いそれの残響が、やけに籠もって木霊する。
「あぁ、起きたんだ?」
 おはよう、国広。
 弾かれたように後ろを振り向けば、そこには何日ぶりかに目にする、いい笑顔の男の姿があった。起き抜けの目には眩しい白磁の肌、吸い込まれてしまいそうなほど深い瑠璃色の瞳、何ら欠点を見出せぬ圧倒的な美貌。変わらず迫力のある美人顔に、国広はぽかんと口を開けて呆気に取られる。何でこいつが此処に、だとか、やけに機嫌が良さそうなのが逆に怖い、だとか。色々と言いたいことはあるけれど。今となってはそんなもの差したる問題ではなかった。一番の問題は、どうして己の後ろを陣取る男が何一つ身に纏っておらず、生まれたままの姿を晒しているのか――その一点のみであった。
「な、ちょう、ぎ……?」
 どういうことだ。布団の上で寝落ちしたと思ったら、何故己と長義が全裸の状態で、しかも明らかに自分の家のものではない風呂場にいるのだ。脳内を疑問符が列を成して駆け抜けていく。今まで生きてきて、ここまで頭が馬鹿になったと絶望したことはなかった。
「あぁ、夢か」
「なわけないだろ馬鹿」
 仕置きとばかりに耳たぶを齧られる。普通に痛くて生理的に涙が出た。力加減を知らないのか、この男は。
「久しぶりだな。随分と元気にしていたようじゃないか? 昨日なんて日光と終電を逃すまで呑んでいたようだし」
「ん、ちょ……待て、手を止め……っ」
「俺が忙しくしているのに寂しがりもせず……まったく可愛げのない」
 ぐちぐち。ぬちゃぬちゃ。
 ぼやけていた感覚が、次々と襲いかかる刺激のせいではっきりと覚醒してゆく。
(中に、入って……っ)
 尻の穴に指を突っ込まれている。しかも何を仕込まれたのか知らないが、やけに滑りが良くなっていて、ぞわぞわとした感覚が止まらない。長い時間縁を解されていたのか、出すところに突っ込まれているというのに痛みはなく、ゆっくりと抜き差しする動きが排泄を思わせて、ゾッと鳥肌が立った。
「お、い……! 汚いから、やめろ!」
「汚くないよ。俺がちゃんと綺麗にしてやったんだから」
 綺麗にしてやった。
 その言葉の意味を理解し、カァッと顔が熱くなる。国広とてそこまで初心ではない。男同士の性行為には、そういった下準備が必要なことは知っていた。
 今まで長義と国広は深い仲にはなれど、一線を越えたことはなかった。越えるとしても存外ロマンチストな面のあるこの男のこと。初夜にはもっとこだわりを見せるかと思っていたのに。まさかムードもへったくれもなく、無理矢理に近い形で夜這いされるとは予想だにしていなかった。
「ほら、もうこんなに広がる……」
 人差し指でぷっくりと腫れた縁を広げられ、まじまじとそこを視姦される。突き刺さるような視線に居た堪れなくなり、思わず顔を逸らした。すると、自分以外に気を逸らすことなど許さないと言わんばかりに、顎を掴まれ強引に後ろを向かされる。
「ん、ぅ」
「ふ……、」
 噛み付くようなキスをされ、息が苦しくなる。溺れるように男から与えられる酸素を求めて、自らおずおずと舌を差し出した。それにふっと小さく笑った長義は、目を瞑り本格的に深い口づけを仕掛けてくる。熱を分かち合う最中、ひくひくと長義の指を締め付けてしまう己の身体の淫乱さに、いっそ目眩がした。
「長義、待て……っ」
「待たない」
 ぐ、と。内側の膨らみを強めに押される。
「んァッ!?」
「……俺を拒むなんて許さない」
 初めこそじんわりと滲むような、僅かな違和感が生まれるだけであったそこは、しかし何度も刺激されるにつれ硬度を増していき、やがて目の前がチカチカと点滅するほどの強い快感へと変わった。
「やめ……ッあ、んああ!」
 どうしようもなく気持ちよくて、少しでも衝撃を和らげようと身体が勝手に前屈みになってゆく。ビリビリと腰が甘く痺れ、前を触られているわけでもないのに、強烈な射精感に苛まれた。これ以上はまずい。身体が強制的に作り替えられていく感覚に、危機感を覚える。しかしそれ以上に早く達してしまいたいという欲望の方が強くて、ぐちゅぐちゅに熟れた内側を犯す指の動きに、意識を集中させた。
 ――それは不意打ちだった。
「アッ」
 ツン、と存在を主張する胸の飾りを、指先で弾かれる。下だけでなく上までも刺激され、軽く精を吐き出してしまった。
「ん、ぁう、……ちょ、うぎ……ハ、も、限界……ッ」
 ガクガクと腰の震えが大きくなる。頑なに握った拳は、血の気が失せ真っ白になっていた。このままでは男としての尊厳を失う気がする。頭ではわかっているものの、敏感な身体は少し指先が掠めただけでも、鋭敏に快楽を拾い上げてしまう。
「は、は……っ、イキそ……っ」
 涙が溢れてくる。気持ちいい。イキたい。もう出してしまいたい。みっちりと埋め込まれた指先が、国広のイイところに狙いを定めて、ナカを押し上げたり広げたりと好き勝手に動き回る。すっかり柔らかくなったら肉壁は、まるで女の膣のようで、このまま快楽に身を任せてしまえばどれほど気持ちいいのだろう、と。不埒な好奇心が顔を覗かせた。
(あ、もう……イく……!)
「だーめ」
「うッ!?」
 限界に達し、そのまま精を吐き出そうとしたその瞬間、勃ち上がった剛直の根本を握られ、痛みに呻く。一瞬何が起きたのか分からなかった。ただあと少しで解放されるのだと浮き足立った直後に期待を裏切られ、年甲斐もなく喚き散らしたくなる衝動に襲われる。そうしている間にも強制的に堰き止められた熱は、行き場を失くしてぐるぐると下腹部の中で燻った。
「なん、で……ッ」
「これじゃあただのご褒美だろう? 俺はね、ここに尋問をしに来たんだ」
 尋問? 今更何をほざいているのやら。いつも必要以上に国広のあれこれを調べ上げては、する事なす事に喧しく口を出してくるのはどこのどいつだ。この前だって、依頼のためにターゲットの女に近づいた時のことで大喧嘩したばかりだというのに。
「尋問も何も、あんた全部知ってるじゃないか……!」
「いいや、俺でも迂闊に手が出せない相手だったものでね。……チッ。部下を張らせてたってのに、使えない」
「は、あんたな……ッう、」
 ずるり。
 指を引き抜かれ、空っぽになったナカがヒクヒクと痙攣する。長時間みっちりと埋められていたせいで、猛烈な寂寥感が襲ってきた。
「なんで、抜いて……、?」
「場所を変える」
 ぐったりとバスタブにもたれかかる国広の身体を抱き上げ、長義は風呂場を後にする。茹だった身体を冷やす部屋の空気はちょうどよかった。ぺたぺたと間抜けな足音を立てながら男は廊下を進み、やがて寝室と思われる部屋の扉を開く。そして身構える余裕もなく、ずぶ濡れのままベッドへ放り投げられ、そんな国広の身体の上にすかさず長義が覆い被さってきた。
「五月二十六日、二十五時頃」
「……?」
「六本木グランドホテル」
「なにを、」
「日光一文字とホテルに入っていくお前の姿を、部下が確認している」
 写真もあるけど、見てみるかい? 
 壮絶なまでに美しい冷笑を浮かべた男の表情に、鳥肌が立った。
「な、」
「それ以降も何度かホテルに入っていくのを部下が見ている。どうやら朝まで二人揃って出てこなかったこともあったらしいね? ……どういうことか説明してもらおうか」
 地を這うような声。こちらを見つめる瞳からは一切の温度が感じられない。これは、本気で怒っている。答えを間違えれば殺されるかも知れない。そんな考えが浮かぶほどに、長義はキレていた。今まで何度も喧嘩してきた二人だけれど、ここまでの怒りを露わにされたのは初めてだ。
『三男坊には実に頼りになる保護者ができたので、もう心配は要らぬとも伝えておこう』
 不意に、日光が最後に言い捨てていった言葉を思い出す。あの時、あいつは国広の後ろを見て笑っていた。そう、《笑って》いたのだ。
(あいつ……ッ長義の部下が尾行しているのに気づいてたな……!)
 てっきり日光の部下の方を見ていたと思っていたのだが。今ようやく確信した。あれは国広のことを監視する長義の部下を敢えて黙認し、一人楽しんでやがったのだ。
(やられた……っクソ!)
「それで? 何か弁解はあるかい?」
「……ッ」
 ぐぷっ、というはしたない水音が鳴る。容赦なく三本もの指を突っ込まれて、息が詰まった。
「あいつにはどこまで許した? まさか最後までなんて……ないよね?」
「あ、ぅ……ちがっ」
 すっかり腫れてしまった前立腺を押し潰され、ぐっと腹に力が入る。辛うじて押し出した声は震えていた。腰に響く快感が脳髄を震わせ、思考が遮られる。何とかして誤解を解きたいのに、吐き出そうとした言葉が次々と喉奥で潰えてゆく。このままではいけないとわかっているが、止めどない責め苦は確実に国広の精神を蝕んでいった。
「何が違うのかな? 朝までホテルで楽しくお話ししてましたって? ……馬鹿にするなよ」
「はぁッん、あ、ああ!」
「正直に言え。……あいつが触れた場所はすべて上書きしてやる」
「してない!」
 ひくり。男の手の動きが止まる。このチャンスを逃してたまるかとばかりに、国広は畳み掛けた。
「あんたが思ってるようなことは何もしてない!」
「……」
「そもそも日光の奴と会っていたのだって、あいつが勝手に俺を追いかけてきたからだ。わざわざ待ち合わせて会ったことはなかった!」
 ホテルで出くわす確率が高かったのは、次の現場の近くで国広が取っていたホテルに、あいつが乗り込んできたから。ただそれだけ。話をした場所はホテルに入っている酒場であったし、己の部屋に日光を招くことはなかった。朝二人一緒にホテルを出たのは、しつこく付き纏えば国広の方が折れると踏んだ日光が、朝まで国広を待ち伏せしていたからだ。だがそれも、国広の頑なさを知ってからは時間の無駄だと判断したのだろう。そのうち朝まで付き纏うことはなくなった。
「本当だ……俺には、あんただけ……だから、ッ」
 早くあんたを俺にくれ。
 もう我慢の限界だ。ぐずぐずに蕩けた身体は健気に男を求めている。自ら大きく足を開いて、見せつけるように腰を動かしてみた。その一挙一動を凝視する瞳孔の開いた瞳に、己の卑猥な仕草が刻みつけられる。
 くだらない問答なんていらない。ここまで熱くさせた責任を取れ。挑発的な視線でそう訴えれば、目の前の雄は生唾を呑み、ごくりと喉を鳴らした。それはやけに色香を纏った、動物的な反応だった。
「はや、く」
「……ッ!」
 ぐぷり。
 一気にナカを貫かれた。
「あ、ハ、ああ!」
「くにひろ……くに、ひろ……っ」
 指の質量の比じゃない。バキバキに硬くなった男の欲望は熱くて堪らなくて、乱暴に打ち付けられる度に嬌声が漏れ出た。
 ばつ、ばつ、と肉を叩く音が鳴る。
 気持ちいい。
 何も考えられない。
 野生じみた本能が、理性を上塗りする。己を貫く剛直の凹凸を生々しく内側で感じ取り、浅い場所から奥深くまで抜き差しされるにつれて、きゅうっと締め付ける力が強まっていった。
「ん、あ! まっ……はげし、い、から!」
「国広、」
 可愛い。はしたない。あぁ、かわいそうに。
 何度も名前を呼ばれ、言葉で辱められ、激しく揺さぶられる。藁にもすがる思いで掴んだシーツはびしょ濡れで、あとで洗濯しなくては、なんて思わず現実逃避に走った。ガクガクと腰が震える。下半身の感覚は既にない。蕩けて、痺れて、それはまるで他の生き物のように貪欲に雄を飲み込んだ。
「ちょうぎ、」
「……っハ、?」
「すき」
 己の上でひたすらに腰を振る男の首へ、腕を回す。ゆっくりとこちらへ引き寄せ、薄桃色に色づいた唇へ口づけた。
「……も、とッ」
「すき、だ……アッ」
「もっと」
 食われる。
 本気でそう思った。足りないと咆哮を上げながら噛みつかれ、もっと、もっとと強請られる。息が出来ない。溺れるような恋とはまさしくこのことか。理性が焼き切れそうだった。己が人間であることも忘れ、ただ目の前の快楽に流されるまま、獣の如く男との情交に夢中になる。愛おしくてならなかった。一つになれたことが嬉しくて、視界がぼやける。ちゃんと長義の顔を見たいのに、それが叶わないことが無性に悲しくて、切なくて。
 身体は確かに満たされているのに、酷い寂寥感が国広を襲った。
「長義は?」
「……ぐ、」
「なぁ、あんた……っは?」
 教えてくれ。
 つ、と指先を男の頬へ滑らせる。恐ろしいほどに整った、その美しい顔。精巧に作られたビスクドールのようなその美貌が、人間臭く歪められ、汗まみれになっているその様に、胸がぎゅうっと締め付けられる。
 この顔をさせているのは、紛れもなく自分なのだと。そう考えるだけでうっかり達しそうになる。
「……、きだ」
「ん、あ、?」
「……好き」
 好きだよ、国広。
 どうしようもないくらいに、好き。
「ッぁあ!」
 その瞬間、ぶるりと身体が震える。ぎゅうっとナカを締め付けてしまい、己を犯す男が耐えきれず前屈みになった。もう、そろそろか。
「長義、イき、そ……ッ! イクからぁ!」
「……ぐ、あッ、国広……っ!」
「あ、や、ンァア! あああ!」
 ビクビク! と身体が痙攣し、衝撃で息が止まる。内側で長義の欲望が弾ける気配がして、子種を求める肉壁が強く収縮を繰り返した。
「は、は……っ」
「はぁ……」
「ん、」
 唖然と絶頂の余韻に浸っていると、隣に長義が倒れ込んでくる。ずるり、と少しだけ質量が大人しくなったそれを引き抜かれ、甘い声が漏れた。己の下で僅かに震える肢体を慈しむかの如く、男は優しく目を細める。涼しげな色彩のその瞳には、まだ燃えるような熱の残滓が燻って見えた。
「ん、ふ……ぅ」
「ふ……」
 角度を変え、幾度となくキスをする。重ね合わせた唇は火傷しそうなくらいに熱い。
(はぁ、しあわせ、……)
 ほう、という吐息と共に漏らすと、ぺちんと額を叩かれた。
「……俺は謝らないから」
 むっつり頬を膨らませながら言う大人気ない男に、つい噴き出してしまう。
「ふっ……酷い男だ」
「紛らわしいことをしたお前が悪い」
 くすくす。
 暫しの間、満たされた心地に浸りつつ、子猫同士の戯れのような時を過ごす。
 散々な初体験ではあったが、これもまた自分たちらしい。なんて笑って流せてしまう国広は、きっとこの男に甘過ぎるのだと、そう自覚してはいるけれど。息も出来ないくらいに溺れきってしまったものは仕方ない。
 海底まで沈みきった、この鉛玉のように重苦しい感情を、浮上させる術など元より持ちえないのだ。足掻くだけ無駄である。
「とんだ初夜だったな」
「……ぐ、」
 ――いや、あれは……お前が……。
 そして、妙なところで夢を見がちで、ぶつぶつと言い訳を連ねているこの男も大概、国広に甘かった。
「……次は、もっと優しく……頼む」
「うっ……あ、あぁ……」
 童貞じゃあるまいに。
 顔を真っ赤にしてうんうん唸る長義から見えぬよう、そっと口端を上げる。締め切ったカーテンの隙間から、薄明かりが漏れていた。濃密な夜が明ける気配。一晩中愛し合っていた事実に羞恥を覚えて、国広は火照った顔を隠すために男の胸に額を擦り付けた。何度も、何度も、さながら獣のマーキングのように。
「……」
「なんだよ」
 直接瞳に映らずとも、不貞腐れた男の顔が目に浮かぶ。
 釣られてふわりと微笑めば、長義は一度ゆっくりと瞬きをして、国広に口づけた。
「……なにも」
 新緑の瞳の中に差す木漏れ陽の光を、瞼の裏に隠して。子ども騙しのキスをする。
 これは過ぎた幸福だ。
 そんなことはわかっている。幼い頃から、痛いほどに思い知らされた不公平な現実の数々。もう一生己には得ることはないと思っていたそれ。
(幸せ、か)
 一生分の幸せを食んだ気がした。
 きっとそのままそれを言葉にすれば、男は鼻で笑うのだろう。だから、言ってやらない。教えてなんてやらない。国広が長義の存在にどれほどの安心感を与えられ、甘えているのか、なんて。
「……もう寝ろ」
「ん」
「おやすみ」
「……おやすみ」
 くしゃりと髪を掻き乱す掌に誘われて、微睡に沈む。
 溺れゆく意識のその先で、国広は天高く瞬いていた明星を掴んだ。
 掌に閉じ込めた白銀の温もりは、やがて国広に吸い込まれていくように、輪郭を失ってゆく。
 二度と手放してなどやるものかと、完全に形を失うその前に、青年はそれを飲み込んだ。腹の底にじんと広がる温もりの存在に、ようやく己の中の欠けた何かが、ぴたりと当て嵌まったような……そんな満ち足りた気持ちになった。

 *

 きっと、誰しもが無意識下に敷かれたレールの上を歩いていて、その予定調和から一歩踏み外した者だけが、少しだけ。少しだけ、孤独に抱かれる代わりに何ものにも縛られぬ自由を得るのだろう。
 そして自分は、心からの幸福と安寧を享受するには、少し遠い場所に生まれついてしまった。だから、そこに至るまで人より時間が掛かってしまったのだと思う。
「ん……」
 窓から入り込んだ乾いた風が、頬を撫でてゆく。
 洗い立てのシーツにはまだシトラスブーケの香りが残っていて、温もりの残滓に擦り寄る度に、それは華やかに香った。ゆめうつつの狭間でむずがるように唸れば、クスクスと漏れ聞こえる笑い声。他人の気配を心地よく感じるのなんて初めてで、何処か擽ったさを覚えた。
「おはよう」
 意識が、浮上する。ぼんやりと視線を彷徨かせると、美しい笑みを湛える美丈夫の姿が、視界に飛び込んできた。剥き出しの白い肌が目に毒だ、なんておぼろげに考えながら、掠れた声で「おはよう」を返す。朝の挨拶などいつぶりだろうか。よくよく思い出してみると、誰かとこうして朝まで過ごしたのは初めてかも知れない。
 身体の関係を持った女たち相手の時は、いつも日が昇る前に姿をくらませていたものだから、何だか妙な気分になった。
「今日は休みか?」
「まぁね。緊急の連絡以外はしてくるなと言ってある。もしくだらないことで掛けてきたら三枚におろした後、東京湾に沈めるってね」
「……あんたの部下は苦労してるな」
 コーヒー飲む? と聞かれたので頷いた。するりと布団の中から出てゆく傷だらけの背を、ぼうっと眺める。せっせと朝食の支度を始める男を手伝おうかと思ったけれど、一晩中強いられた無体のせいで、腰から下の感覚がなかったため諦めた。
 勿論長義もそんな国広の状態をわかっているので、いつものように手伝えだの何だのと文句を言ってくることもない。寧ろ上機嫌ですらあって、鼻歌交じりにフライパンを振る男の姿を、国広は穏やかな気持ちのまま見つめ続けた。
「……行きたい場所がある」
 ジュ、と焦げる音が響き、香ばしいバターの香りが届く。
 どうやら今日はフレンチトーストらしい。
「ふぅん。どこに?」
「さぁ」
「?」
「俺の上着のポケットに入ってる」
 皮肉っぽく言ってやると、心底楽しそうに口端を歪めた男が、クスクスと笑いながら部屋を見回した。探したところであるわけないだろう。何せそいつは今頃己の家の玄関あたりで死んでいるのだから。こちらの都合も考えずに拉致りやがって。おかげで国広は長義の家にあの時着ていた部屋着くらいしか持ち込めなかった。財布もなければスマホもない。
 帰る時は絶対に家まで送らせてやる、と心に決めて、不貞腐れながら枕に顔を埋もれさせた。
「あぁ、あのメモね」
 あるわけがないと思い込んでいたので、男の口からその存在が転がり落ちたことに心底驚いた。蛇を見た猫のように跳ね上がり、まさか、と期待と疑心を目に浮かべながら言葉の続きを待つ。
「日光が何かお前に手渡していたと聞いたから、お前を拉致った時にスっておいたんだが……」
「……もう俺は何もツッコまないからな」
 長義曰く、そのメモには走り書きで、とある墓地の住所が書かれていたらしい。だが国広と関連性のある場所では無さそうだったために、彼自身も首を傾げていたのだとか。
(墓地……墓地、か)
 堀川が日光に託したメモ書き。墓地の住所と聞いて一瞬思い当たったのは、血の繋がりがない故に教えてもらえなかった、育ての父・堀川会先代組長の眠る霊園の存在であった。
(まさか……)
「日光の奴、なんだって国広に墓地の住所なんて……仕事の依頼か?」
「いや、多分違う。あのメモは堀川の兄弟が寄越したと言っていた」
「堀川が……?」
「あぁ……だからきっと、あのメモに書かれた場所は……」
 言いかけて途中でやめる。親父が逝く時、屋敷に軟禁されていた国広は、彼の死に目に会うことが出来なかった。また墓参りをしようにも、先代が亡くなってから逃げるように家を飛び出した自分に、あの人の墓の場所を教えてくれる存在などいるわけもなく。親父とのことはずっと宙ぶらりんのままとなっていた。
(いい加減、親父と向き合えと……そういう意味なのか、兄弟)
 今になって堀川が国広へ親父の墓の場所を教えた理由はわからない。しかし、義理を重んじるこの世界で、この半端な状態でいることは良くないということだけは確信していた。それでも……あと一歩のところで尻込みしてしまう。果たして、今更国広があの人の前に行くことは、許されるのだろうか。
(……親父)
「そら、朝餉が出来たよ」
「あぁ、ありがとう」
「どういたしまして」
 ふふ、と小さく笑いながら、長義がダイニングテーブルに皿を並べてゆく。鈍痛を訴える腰を叱咤して起き上がろうとすれば、素早く男がやってきて、甲斐甲斐しく国広の身体を抱き上げた。一人で歩ける、と苦言したところで、長義はまったく聞く耳を持たない。それどころか離すつもりは毛頭ないと言わんばかりに、己を抱く腕に力をこめてきたものだから苦笑した。
「おい、長義……ぅ、」
「まだ痛むんだろう? 大人しく抱かれてろ」
「だが、」
「ふふ、俺がいなければまともに歩くことも出来ないなんて、なかなかどうして良い光景じゃないか」
「……悪趣味め」
 二人はその後甘ったるい朝食の時間を過ごして、国広は四苦八苦しつつも外出の支度を済ませた。何も今日でなくともいいのでは? などと渋る長義を他所に、思い立ったが吉日といそいそと準備を終わらせる。今日この日を逃したら、またズルズルと後ろ向きな思考が邪魔をして、親父の下へ行く決心が鈍りそうな気がしたからだ。
 というわけなので、最近過保護がちな彼氏殿には、久方ぶりの休日に悪いが足になってもらうつもりである。何せ国広の腰を使い物にならなくしたのは、正真正銘この男なので。
「長義、車を出してくれ」
「この俺を足に使うだなんてお前くらいだぞ。まったくふてぶてしくなって……」
「……ダメか?」
「んなわけあるか、戯け者」
 思わず口元が緩む。素直でないことを言っていても、長義が国広に頼られるのを悪く思っていないことは知っていた。「さてはお前、わかってやってるな?」と額を小突かれて、ついに笑い声を漏らす。バレていたか。国広は確かに男の言う通り、彼に思い切り甘え倒している。
 甘え方を知らぬ人形のようだった子どもの姿は、ドロドロに砂糖を煮詰めた愛に溶かされて消えてしまった。よって今ここにあるのは、足の先から頭のてっぺんまで窒息しそうなくらいに重苦しい情愛に溺れた、何処までも人間らしい青年の姿をした残滓だけ。最初は長義に対して一線引いていた部分があったのだが、そんな防波堤など悉く壊して乗り越えてくる男を前にして、中途半端な遠慮は不要なのだと――寧ろ我が儘に強請るくらいで丁度いいのだと――悟ってからは、国広は躊躇いなく男に己の願望を曝け出すようになった。
 初めこそ野生の猫が恐る恐る寄ってくるような甘え方だったのが、次第に絶対の信頼と安心感を得て、飼い殺されたペットのように骨抜きになるまで、そこまで時間はかからなかった。
「よろしく頼む……お兄さま」
「……ちゃっかりした愚弟め」
「ふっ……」

 ――それから数時間後。
 随分と長い間車に揺られ、窓外の景色が都会の見慣れた景色から、片田舎の田園風景へと変わった頃。静謐とした山林を抜けたその先に、親父の墓はひっそりと建っていた。ここならさぞかし静かに眠ることが出来るだろう、と。組の長の眠る場所にしては寂寞とした場を見渡して、率直な感想を抱く。逝く前は何かと忙しい人だったから、穏やかに眠ることが出来ていそうで、なんだか安心した。
「ここか」
「……」
 堀川家之墓。
 そう書かれた墓石の前に、二人して立つ。誰かがこまめにここへ来ては手入れしているのか、墓石は綺麗なまま維持されていた。備えられた生花は瑞々しく咲き誇っていて、墓の周りの雑草なんかも全部抜いてある。国広たちは交代で墓石に水をかけると、ここへ来る前に買ってきた仏花を花瓶へ挿し、線香をあげた。国広の手つきは不慣れそのものであったが、長義はやけに慣れた様子であるのが印象に残った。
「……久しぶり、親父」
 手を合わせ、目を瞑る。
 あれから色々あった。親父が死んで庇護を失い、兄弟の力を借りて屋敷を飛び出て、されど一般人のように表の世界で生きることも叶わずに、ふらふらとアンダーグラウンドで野良猫みたいに生きていた。そしてある日、同じ腹から生まれたのだという実の兄と再会した。兄が長船の若頭というのはなかなかに衝撃的であったものの、紆余曲折あった結果、なんと家族をすっ飛ばして恋人なんかに収まったりして。親父が生きていたら、驚き過ぎてひっくり返るんじゃないかと思うくらい、本当に……色々あった。
「何回か死にかけたが、まぁ、元気にしてる。俺はしぶといから、多分まだまだ親父のところに逝くのは先になると思う」
「向こう百年くらいは俺の傍に置いておくつもりだよ」
「そっちに逝く時は、この隣の口うるさい奴も一緒にくっついてくるだろうから、その時はまた改めて紹介する」
「……山姥切長義だ。長船の若頭をしている。美人で、仕事が出来て、金と権力が有り余っている理想の兄であり彼氏だ。貴方もさぞかし安心でしょう。国広のことは全部俺に任せて、そこでゆっくり寝ていてください」
「性格は世辞にもいいとは言えないが、実力はあるし胆力もある。背中を預けるには申し分のない男だ。だから、うん……心配は要らない、と思う、多分……」
「軟禁するほどこいつを大事にしてたとのことだが、これからは俺が囲ってやるから、そこで指を咥えて見てるんだな」
「一応感動の再会なんだが、いちいち雰囲気をぶち壊すようなこと言わないでくれるか?」
 堪らず国広は苦言を呈した。一方長義は煙草をふかしながら、眉間に皺を寄せている国広の顔をちらりと一瞥するだけで、何も言わずに目を逸らす。
 国広が堀川の家にいた頃に軟禁状態であったことを、彼は知っている。
 その複雑な生い立ちから、存在そのものをなかったこととして扱われていたことも。長義は、屋敷の離れに軟禁して囲い込むばかりだった親父のやり方が心底気に食わないらしく、堀川の先代当主に対してあまりいい感情を持っていないようだった。こうして食って掛かるのもそのせいだろう。故人相手に罰当たりな奴、とは思うが、国広自身思うところがないわけではなかったので、それ以上の言葉は胸の内で留めておくことにした。
「やれやれ……どうやら愚弟は、義理の父に少しでも安心してもらおうという兄心がわからぬらしい」
「安心させるどころか明らかに喧嘩売ってるだろ、あんた」
 さぁ、と風が吹いた。葉の擦れ合う音が鼓膜を震わす。線香から立ち昇る白煙が、風に乗りふわふわと揺れ動いた。服に染み付きそうな線香の匂いに包まれて、暫しの沈黙が二人の間に降りる。
「……長義がいてくれるから、俺はもう大丈夫だ」
 隣から、ぐっと息を飲む音が聞こえる。
「大丈夫だから、安心してくれ、親父」
 死人に口なし。墓の下で永遠の眠りについた親父が、これで納得してくれたのかどうかは、正直なところよくわからない。しかし、これで良いのだ。これでやっと、国広は前に進める。長義の隣を歩く未来に、希望を持てた気がする。
「国広、」
 ポイッと雑に投げ渡されたのは、朱で塗り上げられた一つの盃。突然何を、と問う間もなく中に酒を注がれて、今度は長義が持つ空っぽの盃を差し出してきた。どうやら酒を注げ、ということのようだ。
「いつの間にこんなものを」
「いいから注げ」
「わかった……」
 とぷとぷ。
 透き通った水のようなそれが、盃を満たしてゆく。
「これは兄弟盃じゃない」
「……?」
「夫婦盃だ」
「え、」
 衝撃的な発言の後、何食わぬ顔で男は盃に口をつけた。ごくり、と喉が鳴る度に上下する喉仏を、唖然と見つめる。
「お前も飲め」
 国広はずっと、長義と盃を交わしたいと思っていた。こちら側の世界において、盃を交わすという行為には大きな意味があったから。けれども交わしたいと思っていたのは、あくまで兄弟盃のことであって、夫婦盃だなんて思いつきすらしなかった。だというのにまさか、こんな形で彼と盃を交わすことになるなんて。
「本気、なのか?」
「くどいぞ。……さっさと口をつけろ」
 見上げた顔は真っ赤だった。色が白い分良く目立つ。耳まで真っ赤になっていて、いっそ哀れなほどだった。
 情けないことに盃を持つ手が震えている。ゆっくりと焦らすように唇を近づけてゆく様を、穴が開きそうなほどの熱視線でもってして射抜かれた。顔が熱い。きっと、見るまでもなく己の顔は、先ほど目の当たりにした男のそれより、もっと赤く熟れているに違いない。猛烈に恥ずかしくなって、それ以上に嬉しくて、胸の奥から込み上げる激情に、全身が震えた。
 これは夫婦盃だと長義は言った。
 その名の通り、生涯の伴侶として契りを交わす盃。相手を支え、支えられ、互いの片翼となって生きてゆくと、固く誓い合う特別なもの。
「……長義」
「……」
「……好きだ」
「っ! 何を当たり前なことを」
「好き、だ」
 言葉に詰まる。上手く声が出せない。頬を伝う涙はやけに温かくて、一度流れてしまえば忽ち涙腺は壊れた。
 嗚咽混じりに告白する。この男が好きで好きで堪らない、と。いつになく表情豊かな、それでいて愛らしい顔を晒す伴侶を、長義は慈愛の眼差しでもって見つめた。言葉にせずともわかる、その愛の深さ。墓の中で眠る父も、ここまで目の前で惚気られれば何も言えまい。
「お前だけだ、国広」
「……ぅ、っ」
「俺には、お前だけ。だから、お前も俺だけでなければ許せない」
「ちょ、うぎ……!」
「俺の愛は重いぞ。軽率に言葉に出来ないくらいには……お前を好いている」
 盃の中身を飲み干して、両の手で顔を覆った。泣き顔を見られたくなかったからというのもあったが、羞恥のあまり無意識にそうしていた部分が大きかった。
 とぷ、とぷ、と。
 また、酒を注ぐ音がする。幼子みたいに泣きじゃくる国広の盃を奪って、長義はそれをどうしてか墓前に供えた。
「親父殿、やけ酒するなら付き合いますよ」
「ふはっ」
 にやり、と底意地悪く笑いながら、挑発してみせる美丈夫。これでは安眠出来るものも出来ないだろう。心の中だけで呟いて、国広は盛大に噴き出した。
 都会の喧騒から離れた片田舎の霊園に、二人分の笑い声はよく響く。国広は胸ポケットから生前親父が愛煙していた煙草を取り出し、おもむろにそれへ火をつけると、灰になりかけの線香の上に煙草を置いた。
 無作法? 罰当たり? そんなもの、知ったことか。
 無秩序の中で生きてきた自分たちに、今さら墓参りの作法だの何だのを説くなんて、所詮は無意味な話なのだから。

【番外編 盃を交わす日 完】

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